森を歩いていると下界のことは忘れます
不思議ですが、お仕事のことも浮かんできません
ささやかな私のリフレッシュです
民俗学や文化人類学の分野では「ケ」と「ハレ」といった概念があるやに聞いております。
ケ(褻)は「日常」、ハレ(晴れ)は「非日常」を表す言葉だそうです。
また日常生活を営むための「ケ」のエネルギーが枯渇するのが「ケガレ」(褻・枯れ)であり、
ケガレは「ハレの祭事」を通じて回復すると唱える学説もあります。
秋祭りは心の夏バテの特効薬と言うことでしょうか。
この説を借りるなら
私が下界での「ケ」としての日常生活を続けていくうちに、私の中のエネルギーが枯渇し「ケガレ」となり
その「ケガレ」を回復するには「ハレの祭事」としての「祭」が必要、との図式が出来上がります。
そうならば、私がこうやって森をさまよい、森に浸ることでリセットのボタンが押されリフレッシュできるとするなら、私にとっての「森の生活」は「ハレの祭事」と捉えても良いのではないでしょうか。
確かに「祭」では「雪駄に半纏、豆絞り」で正装しますが、森の生活でも「長靴にL.L.Bean、ストローハット」で正装します。
そしてまた「祭」につき物の宴も毎晩のように催されます。
こう考えると正に「森」は私にとって「ハレ」以外の何者でもないとの思いが強くなります。
村の神社には必ず「鎮守の森」がありますね、森には昔から「ケガレ」を払い癒す力があったのでしょう。
森に浸っているだけで枯渇したエネルギーが満たされていくような、そんな不思議を感じます
決して華やかではないけれど
ささやかな「ハレの祭事」なのです
私にとって。
岡 宏峰
志野ぐい呑
こんな理屈をつけながら、やっぱり今夜も宴です。
森に感謝の「宴」です
「 宵 宮 の 瘤 を 肴 の 宴 か な 」 焚火八六
河合透
呉州面取盃
児島塊太郎
織部ぐい呑