木洩れ日の森から

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2008年 01月 18日

稗 之 底 村 の 謎

以前「妖しの森」項で謎の村「稗之底村」のことを少し書きました
そして村の址を散策し何度か奇妙な体験もいたしました
そんな「稗之底村」のことがどうしても頭から離れません



森の小路を歩くのは私のようです

鬱蒼の唐松の森のなかを

おそらく、鉢巻道路のすぐ下の棒道を原村方向に歩いているようです

かすかに覚えのある風景が続きます

と、突然、鬱蒼の森の中に空ろのある大木が現れます

その大木の根元には、苔むした石の祠

これは

「稗之底村」西出口湧水地の光景に違いありません

そう、謡いの聞こえてきた、あの場所です・・・


奇妙な思いで目を覚ましましますが

「稗之底村」のイメージがしばらく付き纏い、眠ることが出来そうにありません

曳かれるようにPCに向かいます




「稗之底村」 あまりの気候の厳しさに、廃村し移住せざるを得なかった悲しい村
しかしこの「稗之底村」には幾つかの謎があると聞いています

はたしてその謎とは

富士見町の公式サイトを見てみますと

・・・・・・・・・・・・・・・・・
稗之底古村址は保健休養地別荘下、信玄の棒道から2km程下った標高1400mの八ヶ岳雪解け水が湧き出る所にある。
稗之底村は境方十八ヶ村に数えられる古村で村人は1763年頃にこの地を放棄し立沢村、乙事村に移住した。
当時はわずかな田畑の耕作と周辺の森林の伐採で生計をたてていたが、高冷地での厳しい寒さで引越しを余儀なくされたと伝えられるが
なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか?
八ヶ岳山麓の高台に建てられた大先神社の意味?
村人の多くが山梨県(甲斐の国)に多い「植松」姓?
信玄の棒道の奥地?
など・・文献には残っていない謎の部分が多く、ミステリースポットである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・


これをもう少し紐解いてみましょう

謎-1文献が極めて少ない、なぜか
   「稗之底村」(ひえのそこむら)は、境方十八ヶ村に数えられる古村でしたが、村に関する文献としては
   「諏訪郡諸村並(ならびに)旧蹟年代記」(筆者不明幕末)に引用される天正十八年(1590)の「諏訪郡御検地御高帳」に
   高三十六石三升と記載され
   また宝歴十三年(1763)中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、乙事村の役人が差し出した文書に
   「右稗之底村ノ儀、八ヶ嶽下ニテ地所至ッテ寒ク、作毛生イ立チ兼ネ、其ニ上野山伐リ尽クシ渡世難儀仕リ、
   正保年中立沢新田へ引越シ、其ノ後明歴年中以前ノ村方へ罷リ帰り家作仕リ候得共、前諸ノ通り渡世仕リ難ク候ニ付キ、
   乙事村へ引越シ住居仕リ中馬稼ギ等仕リ候」と記している。(富士見町教育委員会資料)
   天保十三年、中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、
   乙事村の役人が差し出した稗之底村の廃村に至った事情として、「地所至って寒く、作毛生立ちかね」、
   「野山伐り尽くし渡世難儀」など、
   気候が寒冷で作物の育たないこと、山野を伐り尽くしてしまい出稼ぎの渡世が成り立たない事を上げている

   文献による史料はこれだけなのだそうです

謎-2なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか
   この村のある富士見高原は標高1200mから1400mで、冬は当時-20℃にも達する極寒の地
   そんな高原も古くは、森に住む鹿や猪、鳥を狩りそして木の実の採集による縄文の文化が大きく花開いた地域でした
   そかし狩、採集には適していた高原ですが、その後の稲作には全く適さない気候風土です
   時代が弥生期に移るとこの高原から人の気配が消えてしまうのです
   「稗之底村」が出来るまでは
   そんな厳しい気候風土の場所になぜ村を作ったのでしょうか、なぜ

謎-3八ヶ岳山麓標高約1200mの高台になぜ大先神社が建てられたのか
   「稗之底村」跡には村の産土神の大先神社跡が残っています
   祭神は「宇迦之御魂(稲倉魂命)(うかのみたまのみこと)」で稲荷神社であったようです
   しかしたかだか三十六石三升の村に産土神の大先神社など、そぐわしくありません
   なぜ、こんな小さな貧村に大先神社を建てたのでしょうか、なぜ

謎-4村人の多くが甲斐の国に多い姓なのはなぜか
   伝承によれば植松姓、北原姓、五味姓(一部)は稗之底より移住したという
   諏訪に程近いこの村に甲斐の国に多いとされる「姓」が多いのは、なぜ

謎-5境方十八ヶ村に数えられる古村であるこの地を放棄し移住したのは、なぜか
   先に示した乙事村の役人が差し出した文書により、稗之底村を放棄した村人が立沢村・乙事村に移住したことは明らかなのです
   ちなみに、このとき移転したという明歴二年(1656)銘の六地蔵石幢が乙事に現存します

などなど、幾つかの謎が浮かび上がってくるようです

それではこの謎を解く「仮説」でもないかと検索しますが、なかなか見つけることが出来ません
そこで、無謀にも私なりに仮説を立ててみることにいたしましょう
しかし、これほど文献・史料がないことと、また有ったとしても、歴史の知識に疎い門外漢の私です
仮説と言うより、空想を基にしたかなり乱暴な推理でしかないのですが

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まず謎-4「甲斐の国に多い姓」このことは、信濃の国とされているこの地が、それはいつ頃からかという問題を考えなければななないでしょう
稗之底村のある立場川(境川)から国境にあたる甲六川に挟まれる地域は中世から「堺」と呼ばれ古来甲斐に属しておりましたが、天文九年(1540)に甲斐の武田信虎の娘禰々(ねね)が、諏訪の当主諏訪頼重のもとに嫁いだ時、化粧料とし堺の十八ヶ村が武田から諏訪に贈られそれから堺は信濃になったとの伝承が広く伝えられております(富士見町史より)
このことから「甲斐の国に多い姓」ことはそれほどの不思議はないのでは、しかしながら甲斐の国との密接な関係は容易に想像されます

そして謎-2「生活条件の悪い土地」を考えると明らかに自然発生的な村ではなく、そこにはなんらかの意図が隠されているように思われます
そして、謎-1「文献が極めて少ない」からは、なんだか秘密めいた匂いがしてきませんか
次に、「稗之底村」の位置関係をと地図を見てみると、なんとすぐ近くに「棒道」があるではありませんか、少し匂ってきましたよ
この「棒道」は「信玄の棒道」とも呼ばれた「甲斐」と「諏訪」とを結ぶ軍用道路です、そしてこの「棒道」を少し調べてゆくと

なんだか謎を解く「キーワード」になりそうな気配がしてきました

「棒道」は上・中・下の三本あったと伝えられています
1528(享禄元)年,富士見町を舞台に繰り広げられた「神戸(ごうど)・堺川(現在の立場川)の戦い」の際使われたのは「中の棒道」のようです

信玄が信濃攻略を開始したのは1542(天文11)年、そして次の北信濃の平定に際し、これまでの道よりもっと最短コースをとるために作らせたのがこの「上の棒道」のようです
最短コースの「上の棒道」は大泉村大芦から長坂町小荒間を経て、小淵沢町を抜け、八ヶ岳の西の麓から長野県(富士見町)に入り甲六川を渡り富士見町・原村を経て、茅野市湯川で大門街道に合する23kmの行程で信玄の目的地,北信濃つまり長野盆地に通づるといわれています
1552(天文21)年、信玄は「甲府から諏訪郡への道を作ることを命じ」、「川に橋をかけるために、どの山からでも木を切ってもよい」としているそうです

しかしこの「上の棒道」は、実際の戦いに使われた形跡はあまり無く、物資の輸送に使用されたとの見方が有力らしいのです
なんと「稗之底村」はこの「上の棒道」の最終地点近くに位置するのです、かなり「信玄之棒道」との係わり合いが深そうな気がしてきました

当時の土木工事、特に山中の工事にはかなりの特殊技術が必要なことは想像できます

そこにはやはり専門の技術者の存在があったはずです

(甲斐は「信玄堤」でも明らかなように、非常に優秀な土木技術を持ってたことは確実です)

このことから

「彼らはそんな技術者集団だったのでは」

との仮説が成り立たないでしょうか

そして信玄の密命を受け軍用道路である「上の棒道」の工事に着手するのです、当然軍用の性質上「極秘任務」となり、そこで謎-1文献は極端に少なくなるはずです
工事の進行によりベースキャンプとして村を開き、移動していったのではないでしょうか、この場合、村の立地条件は普通の村とはかなり異なったものとなるはずです
軍用道路の建設です、物資的、経済的バックアップは当然でしょう、そこに、謎-2「生活条件の良し悪し」 はあまり意味を持ちません、水さえ豊富にあれば
それにはこの地はうってつけです、たくさんの湧水からは懇々と豊富な水が湧いているのです、あとは現場に近いことが最大の条件となったはずです
そしてこの難事業達成に際し神仏の加護を求め、そしてまた少しでもこの地での収穫が上がるようにと穀物・農業の神である「宇迦之御魂」を産土神として祭ったのも当然うなずけるのではないでしょうか
謎-3「産土神である大先神社」はこの地だからこそなのではないでしょうか、当然建立に当たっては甲斐のバックアップもあったでしょう
そしてほど近くにある「大山祇社」は、元々小さな祠に祀ってあったものを信玄が棒道の往復をする際に、山路の平穏を祈って三島神社から分霊し合祀した祇社だそうです
やはり、この地にこそ地縁集団としての信仰意識に基づくとされる産土神「大先神社」は必要だったのです

ではなぜ、彼らは棒道開通の後までこの村にとどまったのでしょうか
現在このあたりは、唐松や赤松の生い茂る鬱蒼の森ですが、当時は三里ヶ原、広原の地名が示すように見渡す限りの大草原でした、その大草原にはおそらく「牧」(馬の牧場)が営まれていたのでしょう
そんな馬の通り道が棒道の原型となったのかも知れません
また棒道にはこれと直角に立場川(境川)をはじめ幾筋もの川が流れております
この川筋は、雨が降ると鉄砲水となり、大きな岩を押し流したといいます
当然、橋は流され、路肩は削られることとなります

やはり後の整備は欠かせないのです、崩れた路肩を直し、流された丸木橋をかけ直す
そんな「道守り」としての仕事に携わったのではないでしょうか

しかし

やがて時は流れ、道の軍事的な役目は消え

もはや伐るべき木も伐りつくします

そして時代が移り、物資的、経済的支援もなくなり

やがてその物資輸送の役割も甲州街道などに奪われます

もはやこの地での「存在理由」すら失われてしまいます

そして、歴史の記憶からさえも消されていったのです

しかし彼らに行く当てはありません、幾世代かをしのいできたこの地を離れることが出来ないのです
少しばかりの農地を開墾し、雑穀で飢えをしのぎながら森林の伐採で生計をたて縄文の狩や採集に立ち返っての生活だったのでしょうか
もう一つ、「稗之底村」という村名からは、かなり貧しい暮らしを連想されますが
稗は当時の主食穀物と考えられます、ましてや標高1200mの寒冷高地、当時稲作など到底考えられません
当然、粟や稗が主食となります

しかし、謎-5村開設から約100年をこの地で暮らした人々も、ついに村を去るのです

このとき何があったのでしょう
飢饉でしょうか、疫病のためでしょうか、それは定かではありません
稗の甕の底を見るような、あまりにも貧しい暮らしさえ成り立たなくなったのです
精も根も尽き果てたのかも知れません
六地蔵石幢の銘を信ずるならば、明歴二年(1656)
人々は少し標高の低い「乙事(乙骨)」「立沢」に別れ、暮らしを立てたと伝えられています

このように「稗之底村」を「信玄の棒道」のための「技術者集団」との仮説にたてば

数々の謎は自ずから解けていくではありませんか

しかし、ここまでの空想からの仮説は

もし「稗之底村」の研究者がおられるならば、既にたどり着かれていることでしょう

しかし、この仮説を立証すべき文献も史料もありません

新しい文献が発見されるまで



門外漢の戯言



空想「稗之底村」の謎物語とでもしておきましょうか



                「稗の底村」のお話   富士見町探検隊よりお借りいたしました






追記
検索している内に「宮崎駿監督」の立てられた「稗の底村に関する仮説」に行き当たりましたので、ご紹介させていただきます
詳しくは
井戸尻考古館の編纂になる2002年7月20日から11月24日までの間に当地で催された講演会、座談会
をまとめた講演録集
「蘇る高原の縄文王国」 井戸尻文化の世界性 
の中の、富士見町立南中学校体育館にて2002年8月4日に行われた、「富士見高原は面白い」と題された宮崎駿氏の講演録をご覧ください


監督もやはり「稗之底村」に捕り憑かれたお一人のようです

ひょっとすると、「稗之底村」がアニメになる日が来るかもしれませんね



青文字の部分は2012-8-19 加筆

「稗之底村」の廃村の理由を探し、「富士見町史上巻」の中に下記の文章を発見いたしました

また、別の史料によれば、廃村の直接のきっかけは、稗之底の水神社のあたりで「怪異なること」が起こったためであると言い伝えられており、「白きにわ鳥出、屋根に登り、おどしなどいたし候よし」ともあり
当時の人々の間に、薄気味悪い土地と印象を残していたことがわかる
いずれにせよ、廃村当時の直接的な記録が残っているわけではないので、このへんの事情ははっきりとしない

別の史料とやらを見てみたいものです・・・


      以下2015-08-17 加筆

と、史料を探しておりましたら

「富士見町史上巻」資料編にこのところの文章を見つけることができました

   一四五 文政四年二月 稗之底村再興一件につき諏訪城下詰衆宛乙事村役人書状
の中に
「一 稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓ニ而地所至而寒ク、作毛実入兼、其上当村之水神山尾崎明神之森ヨリ(U+309F)怪異成事
共有之、住居難成、・・・・」
さらに
   一四八 文政四年二月 稗之底村再興一件につき町にて書留帳
には
「一 水神森より異へん成儀と申儀ハ、何事二候やと御尋有之、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登りおどしなといたし候よし」
とある
水神森の異変とは、古人の言い伝えによると、白い鶏が出現して屋根から人を脅したらしい
日本においての鶏は古代埴輪にその姿を遺しますが、以来江戸期に入るまで海外種の鶏の流入は無かったようですので
現在見かける白の鶏はかなり怪異なものであったようです
わざわざこのことを報告しているのですから、当時としてはかなり恐ろしいことだったようすが伺えます

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稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
[ 2008-01-18 04:59 ]
妖 し の 響 き・稗の底
[ 2007-10-29 06:32 ]
続・妖 し の 森
[ 2007-10-25 06:24 ]
妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]


by takibiyarou | 2008-01-18 04:59 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)
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