カテゴリ:妖しの森( 9 )


2014年 06月 11日

仮説は仮説のままなのか・・・


降り続いた激しい雨に代わり

春ゼミ時雨に包まれる森のデッキで

遥か昔に想いを馳せております


ノエルの森のすぐ近くに

忘れ去られた謎の村「稗之底村」はありました

この悲しげな名を持つ村は

多くの謎を残し忽然と消えてしまいます

そんな村の謎を解き明かそうとかねてより、空想と稚拙なる推理を重ねてまいりました

そして一つの仮説にたどり着きました

この仮設に立つならば、多くの村に関する謎が解かれます

しかしながら、この仮設を裏付ける根拠となる史料がありません

いや、あるはずなのですが

私にはそれを探し出す事が出来ないのです

今はまだ、単なる空想の産物としての

仮設のままなのです

     詳しくは 「稗 之 底 村 の 謎



そんな時

ある記事に遭遇いたしました

京都市左京区上高野に崇道神社(すどうじんじゃ)はあります
社伝によれば、785年(延暦4年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が
暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため創建されたという神社なのです
そして、その参道に「五味藤九郎の碑」なるものがあるそうです
この「五味藤九郎の碑」に関する記事を読み進めていくと

驚きの記述に出会います

d0082305_05304989.jpg
五味藤九郎の碑




五味藤九郎の碑は、京都代官として現在の高野村の辺りに高野隋道を構築し
農業用水を開いた事績を顕彰するものだそうです


この碑の由緒書きには

五味藤九郎之碑
昼なほ暗き幽玄の森
崇道神社境内に現存する藤九郎碑は
西暦1676年、和暦延宝5年に現在の上高野東山町山麓の巨岩を貫通、
高野川の清流を当時の高野村川南台地へ通じる水路を開設し
当地の農業の発展と住民の生活に多大の恩恵を遺す
偉大な個人の碑である
台下真黒の刻石に
禁裏御料  山城国愛宕郡高野村用水洫
       五味藤九郎御代官之時洞中三十五間切通
       延宝五丁己春二月 
と銘刻

とある


そして記事には

五味藤九郎は1671年~1680年まで二代目京都代官で、その出自は武田信玄に仕える一族で土木事業などに能力を持つ技術集団で有った 、と

また別のサイトの「五味藤九郎の碑」の記事によると

これなのです、私の探していたものは、ついに見つけたぞ!!

しかしこれらの記事が、いかなる史料に基づいたものなのかには触れられていません


もし、この記事が事実であるならば

以前から抱いておりました私の一つの仮説が

より確かなものへと近づくのではないか

そんな想いを強くいたしました


ではなぜにそうなのか・・・

それは
先に稗の底村の隣村である「乙事村」の奇妙な小字名の由来について「乙事のこと」の項で述べてみましたが
乙事(おっこと)はもともと乙骨(おつこつ)と呼ばれていた
その地の五味一族の名主「五味太郎左衛門」が功績によって甲州に知行を拝領し
後に家康に召し出されて姓を「乙骨」と改め、旗本に取り立てられ
後にこの地も乙骨、そして乙事と呼ばれるようになったと云うものでした

そう、ここで「五味一族」の名が登場いたしましす

そして伝承によれば乙事の植松姓、北原姓、五味姓(一部)は稗之底より移住したと・・・

と、なると

「稗之底村」の五味一族は武田信玄に仕える一族で

正に土木技術者集団であったと考えることが出来るのではないだろうか


これは凄い発見ではないか

我が仮説を実証できるのでは・・・

と、胸が高鳴ります

五味一族の出自のことは幾つかの五味藤九郎の碑のサイトで紹介されていますので
何らかの史料なり文献が残っているはず・・・
と、検索を続けますがなかなかたどり着けません
そこで、初代京都代官である五味藤九郎の父、五味金右衛門(ごみきんうえもん)を検索すると
かなりの数ヒットするのですが
どうもすべて大工の棟梁の五味金右衛門さん
別人のようです・・・

まる一日を費やし探索を続けましたが
五味藤九郎の先祖にはなかなか辿り着くことが出来ません
私の貧弱なる探索能力では、ここまでなのかもしれません
忸怩たる思いではありますが・・・


そんな訳で、今回は

「五味藤九郎の出自は武田信玄に仕える一族で土木技術者集団で有った」

とされることの史実を証明するべき史料の発見には至りませんでした

これを証明できない限り

やはり、仮説は仮説のままなのです


しかし、膨大なる武田文書の中に、五味家文書の中に

また、京都市政史の中に

きっとこの事実を証明する史料が眠っているはずです


きっと


何時の日にか

出会いたいものです





稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
[ 2008-01-18 04:59 ]
妖 し の 響 き・稗の底
[ 2007-10-29 06:32 ]
続・妖 し の 森
[ 2007-10-25 06:24 ]
妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]













by takibiyarou | 2014-06-11 05:25 | 妖しの森 | Trackback | Comments(8)
2012年 08月 19日

稗之底村の謎、再検証

先日行った井戸尻考古館で立ち読みし、購入した書籍
「蘇る高原の縄文王国」井戸尻文化の世界性 
同考古館の編纂になる2002年7月20日から11月24日までの間に当地で催された講演会、座談会
をまとめた講演録集なのですが
その中に、富士見町立南中学校体育館にて2002年8月4日に行われた、「富士見高原は面白い」と題された宮崎駿氏の講演録を発見
d0082305_7264570.jpg

宮崎駿氏は町内の藤内遺跡のある地域に山荘をお持ちで、このあたりの歴史事象にお詳しい
そして何より、稗之底村の謎に執り憑かれたお一人でもあるのです
また、謎解きの上で非常に重要なる、たぐいまれなる「想像力」をお持ちの方でもあります

講演のほとんどを宮崎駿氏の「稗之底村の謎」に関する仮説で埋められておりました
まず、現在ではカラマツ、アカマツ林で覆われた当地も、かつての姿は全く違っていたのではないか
稗之底村に隣接する三里ヶ原、広原、机原の地名から見渡す限りの「大草原」をイメージされます
そしてこの「大草原」を利用しての「牧」の存在を指摘されます
「牧」とは馬を放し飼にする牧場の事、当然この馬を使った運搬業「中馬稼ぎ」が当時もかなり盛んだったのではと
そして「棒道」、これも信玄が整備する以前からこの地に存在していたのではと
稗之底村はそんな「牧」、「中馬稼ぎ」の中心的な村であったのではないだろうか
そんな村も、やがて新しい道ができ最後には甲州街道にその主役を奪われ、忘れられていったのではと想像を広げられておられます


確かに現在のカラマツ、アカマツは植林、40数年前までは我がノエルの森からも南アルプスが一望できたと
聞いております
その大草原に成長の速い、そして電柱やら、炭鉱の柱などに盛んに利用されたカラマツを植林したと聞き及んでおります
この「大草原」視点は私が前に描いた仮説「稗之底村の謎」には欠けておりました
どうしても現在の唐松林のイメージが先行していたことは事実です
そしてこの地が森林でなく大草原であったなら、「棒道」以前に「けもの道」くらいはあったはず
そしてその「けもの道」も人が頻繁に利用すれば「みち」くらいにはなっていたはず
しかしその程度の「みち」を蹄鉄もない当時の馬に荷物を積んで通行していたのでしょうか
そしてまた、このあたりは昔からオオカミの民話がたくさん残ってもいます
そんなことから私には宮崎駿氏の思い描かれた古代の主要ルート説には想い及ぶことはできませんでした

そして講演の中で宮崎氏が是非とも読むようにと勧められていた書籍
富士見町史 上巻
厚さ10センチもあろうか
枕にはかなり重過ぎますが、この本
なかなか面白い
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私がここまで「稗之底村の謎」に執り憑かれたのは
妖しの森」項で書きました不思議な体験からです
富士見町史 上巻の「稗之底村」に関する項を読み進めるうちに
こんな文章を見つけます

別の史料によれば、廃村の直接のきっかけは、稗之底の水神社のあたりで「怪異なること」が起こったためであると言い伝えられており、「白きにわ鳥出、屋根に登り、おどしなどいたし候よし」ともあり
当時の人々の間に、薄気味悪い土地と印象を残していたことがわかる
いずれにせよ、廃村当時の直接的な記録が残っているわけではないので、このへんの事情ははっきりとしない

別の史料とやらを見てみたいものです・・・

やはり、あの森には

何か

ありそうです・・・



稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
[ 2008-01-18 04:59 ]
妖 し の 響 き・稗の底
[ 2007-10-29 06:32 ]
続・妖 し の 森
[ 2007-10-25 06:24 ]
妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]


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by takibiyarou | 2012-08-19 07:53 | 妖しの森 | Trackback | Comments(2)
2008年 01月 18日

稗 之 底 村 の 謎

以前「妖しの森」項で謎の村「稗之底村」のことを少し書きました
そして村の址を散策し何度か奇妙な体験もいたしました
そんな「稗之底村」のことがどうしても頭から離れません



森の小路を歩くのは私のようです

鬱蒼の唐松の森のなかを

おそらく、鉢巻道路のすぐ下の棒道を原村方向に歩いているようです

かすかに覚えのある風景が続きます

と、突然、鬱蒼の森の中に空ろのある大木が現れます

その大木の根元には、苔むした石の祠

これは

「稗之底村」西出口湧水地の光景に違いありません

そう、謡いの聞こえてきた、あの場所です・・・


奇妙な思いで目を覚ましましますが

「稗之底村」のイメージがしばらく付き纏い、眠ることが出来そうにありません

曳かれるようにPCに向かいます




「稗之底村」 あまりの気候の厳しさに、廃村し移住せざるを得なかった悲しい村
しかしこの「稗之底村」には幾つかの謎があると聞いています

はたしてその謎とは

富士見町の公式サイトを見てみますと

・・・・・・・・・・・・・・・・・
稗之底古村址は保健休養地別荘下、信玄の棒道から2km程下った標高1400mの八ヶ岳雪解け水が湧き出る所にある。
稗之底村は境方十八ヶ村に数えられる古村で村人は1763年頃にこの地を放棄し立沢村、乙事村に移住した。
当時はわずかな田畑の耕作と周辺の森林の伐採で生計をたてていたが、高冷地での厳しい寒さで引越しを余儀なくされたと伝えられるが
なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか?
八ヶ岳山麓の高台に建てられた大先神社の意味?
村人の多くが山梨県(甲斐の国)に多い「植松」姓?
信玄の棒道の奥地?
など・・文献には残っていない謎の部分が多く、ミステリースポットである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・


これをもう少し紐解いてみましょう

謎-1文献が極めて少ない、なぜか
   「稗之底村」(ひえのそこむら)は、境方十八ヶ村に数えられる古村でしたが、村に関する文献としては
   「諏訪郡諸村並(ならびに)旧蹟年代記」(筆者不明幕末)に引用される天正十八年(1590)の「諏訪郡御検地御高帳」に
   高三十六石三升と記載され
   また宝歴十三年(1763)中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、乙事村の役人が差し出した文書に
   「右稗之底村ノ儀、八ヶ嶽下ニテ地所至ッテ寒ク、作毛生イ立チ兼ネ、其ニ上野山伐リ尽クシ渡世難儀仕リ、
   正保年中立沢新田へ引越シ、其ノ後明歴年中以前ノ村方へ罷リ帰り家作仕リ候得共、前諸ノ通り渡世仕リ難ク候ニ付キ、
   乙事村へ引越シ住居仕リ中馬稼ギ等仕リ候」と記している。(富士見町教育委員会資料)
   天保十三年、中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、
   乙事村の役人が差し出した稗之底村の廃村に至った事情として、「地所至って寒く、作毛生立ちかね」、
   「野山伐り尽くし渡世難儀」など、
   気候が寒冷で作物の育たないこと、山野を伐り尽くしてしまい出稼ぎの渡世が成り立たない事を上げている

   文献による史料はこれだけなのだそうです

謎-2なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか
   この村のある富士見高原は標高1200mから1400mで、冬は当時-20℃にも達する極寒の地
   そんな高原も古くは、森に住む鹿や猪、鳥を狩りそして木の実の採集による縄文の文化が大きく花開いた地域でした
   そかし狩、採集には適していた高原ですが、その後の稲作には全く適さない気候風土です
   時代が弥生期に移るとこの高原から人の気配が消えてしまうのです
   「稗之底村」が出来るまでは
   そんな厳しい気候風土の場所になぜ村を作ったのでしょうか、なぜ

謎-3八ヶ岳山麓標高約1200mの高台になぜ大先神社が建てられたのか
   「稗之底村」跡には村の産土神の大先神社跡が残っています
   祭神は「宇迦之御魂(稲倉魂命)(うかのみたまのみこと)」で稲荷神社であったようです
   しかしたかだか三十六石三升の村に産土神の大先神社など、そぐわしくありません
   なぜ、こんな小さな貧村に大先神社を建てたのでしょうか、なぜ

謎-4村人の多くが甲斐の国に多い姓なのはなぜか
   伝承によれば植松姓、北原姓、五味姓(一部)は稗之底より移住したという
   諏訪に程近いこの村に甲斐の国に多いとされる「姓」が多いのは、なぜ

謎-5境方十八ヶ村に数えられる古村であるこの地を放棄し移住したのは、なぜか
   先に示した乙事村の役人が差し出した文書により、稗之底村を放棄した村人が立沢村・乙事村に移住したことは明らかなのです
   ちなみに、このとき移転したという明歴二年(1656)銘の六地蔵石幢が乙事に現存します

などなど、幾つかの謎が浮かび上がってくるようです

それではこの謎を解く「仮説」でもないかと検索しますが、なかなか見つけることが出来ません
そこで、無謀にも私なりに仮説を立ててみることにいたしましょう
しかし、これほど文献・史料がないことと、また有ったとしても、歴史の知識に疎い門外漢の私です
仮説と言うより、空想を基にしたかなり乱暴な推理でしかないのですが

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まず謎-4「甲斐の国に多い姓」このことは、信濃の国とされているこの地が、それはいつ頃からかという問題を考えなければななないでしょう
稗之底村のある立場川(境川)から国境にあたる甲六川に挟まれる地域は中世から「堺」と呼ばれ古来甲斐に属しておりましたが、天文九年(1540)に甲斐の武田信虎の娘禰々(ねね)が、諏訪の当主諏訪頼重のもとに嫁いだ時、化粧料とし堺の十八ヶ村が武田から諏訪に贈られそれから堺は信濃になったとの伝承が広く伝えられております(富士見町史より)
このことから「甲斐の国に多い姓」ことはそれほどの不思議はないのでは、しかしながら甲斐の国との密接な関係は容易に想像されます

そして謎-2「生活条件の悪い土地」を考えると明らかに自然発生的な村ではなく、そこにはなんらかの意図が隠されているように思われます
そして、謎-1「文献が極めて少ない」からは、なんだか秘密めいた匂いがしてきませんか
次に、「稗之底村」の位置関係をと地図を見てみると、なんとすぐ近くに「棒道」があるではありませんか、少し匂ってきましたよ
この「棒道」は「信玄の棒道」とも呼ばれた「甲斐」と「諏訪」とを結ぶ軍用道路です、そしてこの「棒道」を少し調べてゆくと

なんだか謎を解く「キーワード」になりそうな気配がしてきました

「棒道」は上・中・下の三本あったと伝えられています
1528(享禄元)年,富士見町を舞台に繰り広げられた「神戸(ごうど)・堺川(現在の立場川)の戦い」の際使われたのは「中の棒道」のようです

信玄が信濃攻略を開始したのは1542(天文11)年、そして次の北信濃の平定に際し、これまでの道よりもっと最短コースをとるために作らせたのがこの「上の棒道」のようです
最短コースの「上の棒道」は大泉村大芦から長坂町小荒間を経て、小淵沢町を抜け、八ヶ岳の西の麓から長野県(富士見町)に入り甲六川を渡り富士見町・原村を経て、茅野市湯川で大門街道に合する23kmの行程で信玄の目的地,北信濃つまり長野盆地に通づるといわれています
1552(天文21)年、信玄は「甲府から諏訪郡への道を作ることを命じ」、「川に橋をかけるために、どの山からでも木を切ってもよい」としているそうです

しかしこの「上の棒道」は、実際の戦いに使われた形跡はあまり無く、物資の輸送に使用されたとの見方が有力らしいのです
なんと「稗之底村」はこの「上の棒道」の最終地点近くに位置するのです、かなり「信玄之棒道」との係わり合いが深そうな気がしてきました

当時の土木工事、特に山中の工事にはかなりの特殊技術が必要なことは想像できます

そこにはやはり専門の技術者の存在があったはずです

(甲斐は「信玄堤」でも明らかなように、非常に優秀な土木技術を持ってたことは確実です)

このことから

「彼らはそんな技術者集団だったのでは」

との仮説が成り立たないでしょうか

そして信玄の密命を受け軍用道路である「上の棒道」の工事に着手するのです、当然軍用の性質上「極秘任務」となり、そこで謎-1文献は極端に少なくなるはずです
工事の進行によりベースキャンプとして村を開き、移動していったのではないでしょうか、この場合、村の立地条件は普通の村とはかなり異なったものとなるはずです
軍用道路の建設です、物資的、経済的バックアップは当然でしょう、そこに、謎-2「生活条件の良し悪し」 はあまり意味を持ちません、水さえ豊富にあれば
それにはこの地はうってつけです、たくさんの湧水からは懇々と豊富な水が湧いているのです、あとは現場に近いことが最大の条件となったはずです
そしてこの難事業達成に際し神仏の加護を求め、そしてまた少しでもこの地での収穫が上がるようにと穀物・農業の神である「宇迦之御魂」を産土神として祭ったのも当然うなずけるのではないでしょうか
謎-3「産土神である大先神社」はこの地だからこそなのではないでしょうか、当然建立に当たっては甲斐のバックアップもあったでしょう
そしてほど近くにある「大山祇社」は、元々小さな祠に祀ってあったものを信玄が棒道の往復をする際に、山路の平穏を祈って三島神社から分霊し合祀した祇社だそうです
やはり、この地にこそ地縁集団としての信仰意識に基づくとされる産土神「大先神社」は必要だったのです

ではなぜ、彼らは棒道開通の後までこの村にとどまったのでしょうか
現在このあたりは、唐松や赤松の生い茂る鬱蒼の森ですが、当時は三里ヶ原、広原の地名が示すように見渡す限りの大草原でした、その大草原にはおそらく「牧」(馬の牧場)が営まれていたのでしょう
そんな馬の通り道が棒道の原型となったのかも知れません
また棒道にはこれと直角に立場川(境川)をはじめ幾筋もの川が流れております
この川筋は、雨が降ると鉄砲水となり、大きな岩を押し流したといいます
当然、橋は流され、路肩は削られることとなります

やはり後の整備は欠かせないのです、崩れた路肩を直し、流された丸木橋をかけ直す
そんな「道守り」としての仕事に携わったのではないでしょうか

しかし

やがて時は流れ、道の軍事的な役目は消え

もはや伐るべき木も伐りつくします

そして時代が移り、物資的、経済的支援もなくなり

やがてその物資輸送の役割も甲州街道などに奪われます

もはやこの地での「存在理由」すら失われてしまいます

そして、歴史の記憶からさえも消されていったのです

しかし彼らに行く当てはありません、幾世代かをしのいできたこの地を離れることが出来ないのです
少しばかりの農地を開墾し、雑穀で飢えをしのぎながら森林の伐採で生計をたて縄文の狩や採集に立ち返っての生活だったのでしょうか
もう一つ、「稗之底村」という村名からは、かなり貧しい暮らしを連想されますが
稗は当時の主食穀物と考えられます、ましてや標高1200mの寒冷高地、当時稲作など到底考えられません
当然、粟や稗が主食となります

しかし、謎-5村開設から約100年をこの地で暮らした人々も、ついに村を去るのです

このとき何があったのでしょう
飢饉でしょうか、疫病のためでしょうか、それは定かではありません
稗の甕の底を見るような、あまりにも貧しい暮らしさえ成り立たなくなったのです
精も根も尽き果てたのかも知れません
六地蔵石幢の銘を信ずるならば、明歴二年(1656)
人々は少し標高の低い「乙事(乙骨)」「立沢」に別れ、暮らしを立てたと伝えられています

このように「稗之底村」を「信玄の棒道」のための「技術者集団」との仮説にたてば

数々の謎は自ずから解けていくではありませんか

しかし、ここまでの空想からの仮説は

もし「稗之底村」の研究者がおられるならば、既にたどり着かれていることでしょう

しかし、この仮説を立証すべき文献も史料もありません

新しい文献が発見されるまで



門外漢の戯言



空想「稗之底村」の謎物語とでもしておきましょうか



                「稗の底村」のお話   富士見町探検隊よりお借りいたしました






追記
検索している内に「宮崎駿監督」の立てられた「稗の底村に関する仮説」に行き当たりましたので、ご紹介させていただきます
詳しくは
井戸尻考古館の編纂になる2002年7月20日から11月24日までの間に当地で催された講演会、座談会
をまとめた講演録集
「蘇る高原の縄文王国」 井戸尻文化の世界性 
の中の、富士見町立南中学校体育館にて2002年8月4日に行われた、「富士見高原は面白い」と題された宮崎駿氏の講演録をご覧ください


監督もやはり「稗之底村」に捕り憑かれたお一人のようです

ひょっとすると、「稗之底村」がアニメになる日が来るかもしれませんね



青文字の部分は2012-8-19 加筆

「稗之底村」の廃村の理由を探し、「富士見町史上巻」の中に下記の文章を発見いたしました

また、別の史料によれば、廃村の直接のきっかけは、稗之底の水神社のあたりで「怪異なること」が起こったためであると言い伝えられており、「白きにわ鳥出、屋根に登り、おどしなどいたし候よし」ともあり
当時の人々の間に、薄気味悪い土地と印象を残していたことがわかる
いずれにせよ、廃村当時の直接的な記録が残っているわけではないので、このへんの事情ははっきりとしない

別の史料とやらを見てみたいものです・・・


      以下2015-08-17 加筆

と、史料を探しておりましたら

「富士見町史上巻」資料編にこのところの文章を見つけることができました

   一四五 文政四年二月 稗之底村再興一件につき諏訪城下詰衆宛乙事村役人書状
の中に
「一 稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓ニ而地所至而寒ク、作毛実入兼、其上当村之水神山尾崎明神之森ヨリ(U+309F)怪異成事
共有之、住居難成、・・・・」
さらに
   一四八 文政四年二月 稗之底村再興一件につき町にて書留帳
には
「一 水神森より異へん成儀と申儀ハ、何事二候やと御尋有之、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登りおどしなといたし候よし」
とある
水神森の異変とは、古人の言い伝えによると、白い鶏が出現して屋根から人を脅したらしい
日本においての鶏は古代埴輪にその姿を遺しますが、以来江戸期に入るまで海外種の鶏の流入は無かったようですので
現在見かける白の鶏はかなり怪異なものであったようです
わざわざこのことを報告しているのですから、当時としてはかなり恐ろしいことだったようすが伺えます

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稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
[ 2008-01-18 04:59 ]
妖 し の 響 き・稗の底
[ 2007-10-29 06:32 ]
続・妖 し の 森
[ 2007-10-25 06:24 ]
妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]


by takibiyarou | 2008-01-18 04:59 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 29日

妖 し の 響 き・稗の底

07-10-21
荷物をまとめ積み込みます、ノエルはいつものローテンション
下山を察知するとこうなります、車の中でもため息です

昨日お願いしておいた「カスタードロング」を頂に行きます、「稗の底」の「ぱん・パ・パン」
クロワッサンも美味しそうです、幾つか頂いて帰りましょう

今度家内が友達をこの「稗の底」に案内したいと言います、そこでもう一度路を確認しておきたいと
それならば、昨日の疑問をもう一度この際確認しておきましょう

森に入るとやはり、なにやら響きます、今度はなんだか「マーラー」のようです、いやミサ曲かも知れません
d0082305_6211988.jpg

はっきりと聞こえてきます、誰か、かなりのボリュームで聴いているのでしょうか
この、音源を調べてみましょうか
ノエルは盛んに森の奥へと進みます水の流れに沿って進みます
ミサ曲はかなりはっきりと聞こえてきます
しかし、それらしき人家はまるで見当たりません
それどころか、音源に近づくと音は逆に小さくなり、戻れば大きく響きます
かなり大きな音で聞いているようですが、その音源が見当たりません
音源に近づくと遠ざかる、逃げ水のようです
大きな流れの脇に出ます、これより奥には進めないようです、川を渡る術が無いのです
この対岸から音は流れてきているようですが、それでも人家は見えません
諦めましょう

もう一度帰って、「東出口湧水」の位置だけはもう一度再確認
やはり道からすぐの所です、間違いはありません
多分ゴウ介家も後で調べに来るでしょう、ずいぶんと納得できない風でしたから
と、この雑文書いていましたら、入りましたゴウ介家の報告が
やはり納得がいかないようです、あんなに近いはずが無いと
そしてこの前はあるはずの無い方角に見えた八ヶ岳が今度はそこに見えないと言います

いったいどういうことなのでしょうか

この「妖しの森」には、きっと何かが有りますねー

今度また、報告会でもやりましょう

ノエルの森で

鍋でも囲んで


妖しの宴




稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
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妖 し の 響 き・稗の底
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続・妖 し の 森
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妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]


枇杷仁酒その後

by takibiyarou | 2007-10-29 06:32 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 25日

続・妖 し の 森

07-10-20

ノエルにお留守番をお願いしましたので
おやつで労い、一緒にお買い物に出かけます
先ほど台ヶ原宿の骨董市で入手した器たちのお披露目です
茶豆は塗りの盆でお出しするにして、今夜も小型のコンロで黒豚でも焼きましょう
そして、その後エリンギ
大きなイカがありますよ、「ゲソとワタのホイル焼き」がいいですねー
グリーンアスパラとかぼちゃも仕入れます、家内が鶏肉を持ってきました、何か考えがあるようです
車の中であれこれと思案していたのが、今日のお披露目の「ウランガラスのお皿」です
さて、何を盛りますか
色々と家内と議論の末、帆立と大根のサラダに決まりです、やはり色合いが肝心と言うことで
帰りに、パンを買うそのついでに例の森に行きたいと家内が言います
いいでしょう、少しなぞが解けるかもしれません
お蕎麦の「おっこと亭」の前を森に入り「ぱん・パ・パン」
お土産の「カスタードロング」も予約しておきましょう、明日帰りによっていただきます
近くに車を留め、例の森に入ります
「妖しの森、稗の底」、先日は上の路から入りました、今日は下の路から森に踏み込みます
少し森に入った所で、またまた何か聞こえてきます
家内と耳を済ませますどうも今日はクラシックのようです
しばらく進み左を見ると、なんと、あの、「東出口湧水」ではないですか、家内は、素敵なとこだと喜んでいます
d0082305_2113278.jpg

しかし、私には腑に落ちません
先日、ゴウ介家と来た折に、確かここから車の道まで少なくとも十五分は歩いたはず
今はどう考えても、一、二分
これはどうした事でしょう、狐にでも摘まれたのでしょうか
今はまだ、家内に話すのはよしましよう
先ほどからの音楽が少しはっきりとしてきました「弦楽五重奏」室内楽のようです
音の聞こえる方角をすかして見ますが

人家の影は見えません


ノエルは何かに着かれたように

森の奥に行こうとしますが


切り上げましよう

今日はこれから宴の準備

明日またよってみましょう

その時はもう少し探索です




稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
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妖 し の 響 き・稗の底
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稗 之 底 散 策
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2007年 09月 30日

妖  し  の  森  ・稗の底

07-9-23
今日は朝から薄曇り
昨日日没のため途中断念した「乙事の森」を歩いてみましょう 、 「稗之底自然探索路」
ゴウ介家と出かけます

「乙事」はあの「もののけ姫」の「乙事主(オッコトヌシ)」の名前のモデルになった地名です
「乙事の森」はその昔「稗之底村」の有ったところ
「稗之底村」はその気候の厳しさ故のたびかさなる飢饉の末、村を放棄し移住しなければならなかった
そんな悲しい歴史の村なのです

稗でさえ底をつく、そんな村だったのでしょうか

そんな「乙事の森」にはたくさんの湧水が今でもいくつかの流れを作っています
そんな流れに沿ってお散歩です

クマザサを分け、ミズヒキの群生を抜け森の奥へと進みます
昼なを暗き鬱蒼の森、そんな森に水音だけが響きます
やがてその水音が一段と高く響き、小さな滝が現れます
永い時を経て、先ほどやっと地上に現れたばかりの湧き水は、その存在を誇示するかのように泡立ち
一気に滝壺に落ちてゆきます
しかしその小さな滝壺は泡立つ水柱を飲み込み、またすぐに元の滑らかな水面に変え
そして、森はその水面に自らを映し、森と同化させてしまいます

少し水遊びしていきましょうか

そしてまた、森の奥へと進みます
森はますますその鬱蒼を深めて行くようです
先ほどからなにやら水音に混じって響く別の音が有るようですが定かでは有りません
おや、変です
先ほどから水の流れに従って森を歩いていたはず
しかしいつの間に流れは反転、知らぬ間に上流に向かって歩いて居るではないですか

どうも先ほどとは違う別の流れかも知れません
ここは「湧水群」、流れがいくつも有って不思議はないはず
そう考えるしかなさそうです
かまわずしばらく進むと少しあたりが開け、広がりに出ます
このあたり、周りより少しひんやりとしているように感じます、湧水のせいでしょうか

鬱蒼の森に忽然の広がり

しかし空は木々の枝で覆われ

そこはやはり、昼なを暗き鬱蒼の森

「東出口湧水地」、懇々と湧き出す水源の様です
石組の泉から静かに流れ出した湧き水はいくつかの岩をかいくぐり
小さな流れを作ります
d0082305_152026100.jpg

すぐ近くには大きな「虚」(うろ)のある杉の大木

脇には苔むした石造りの祠が一つ

気がつけば先程からの水音は消へ、代わりに別の響きが聞こえています
低く地を這うようなその響き
聞き耳を立てるとその響きは次第に鮮明となるようです
謡曲のようです
謡曲、そうですあの能の謡いです、「俊寛」でしょうか、「敦盛」でしょうか定かでは有りませんが
確かに謡曲のようです、同行の友人もいぶかしげにしています、私の幻聴ではないようです

どこからともなく流れてくる謡いの響き

なぜ、こんな森の中で・・・・

周りを見渡しますが人家らしき影は見えません、しかしはっきりとした謡いの声に違い有りません
誰かこの森で謡っているのでしょうか、それとも遠くの人家からの声が風に乗って流れてきたのでしょうか

d0082305_15263980.jpg


石組の泉

「虚」(うろ)の杉の大木と

苔むした祠(ほこら)

そして

それを包む昼なを暗き

鬱蒼の森

道具立ては揃っているようです




ポンポンポポン と小鼓 の音

トーンー  と甲高い大皮(おおかわ)の響き

そして 篝火の揺らめき

大杉の陰より「シテ」が現れい出て舞を舞い

切々と悲しい森の記憶を語ります


そんな「薪能」の幻影を観る

そんな「妖しの気配」が漂います

d0082305_15214576.jpg


謡いはなをも続いています

低くそして更に低く



このままそっと立ち去りましょう

後ろを降り帰らずに



「乙事の森」

妖しの森



「稗之底自然探索路」


2012,8、19 加筆

「稗之底村」の廃村の理由を探し、「富士見町史上巻」の中に下記の文章を発見いたしました

天保十三年、中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、乙事村の役人が差しさした稗之底村の廃村に至った事情として、「地所至って寒く、作毛生立ちかね」、「野山伐り尽くし渡世難儀」など、気候が寒冷で作物の育たないこと、山野を伐り尽くしてしまい出稼ぎの渡世蛾成り立たない事を上げている

また、別の史料によれば、廃村の直接のきっかけは、稗之底の水神社のあたりで「怪異なること」が起こったためであると言い伝えられており、「白きにわ鳥出、屋根に登り、おどしなどいたし候よし」ともあり
当時の人々の間に、薄気味悪い土地と印象を残していたことがわかる
いずれにせよ、廃村当時の直接的な記録が残っているわけではないので、このへんの事情ははっきりとしない

別の史料とやらを見てみたいっものです・・・





稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
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稗 之 底 散 策
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2007年 09月 28日

怪 し の 森 散 策

07-9-22

宴の前にお散歩しましょうか
先ほど近くを通った 「稗之底自然探索路」を歩いて見ましょう
ゴウ介家は先日歩いたらしいのですが、良く判らなかったといいます
そんなに複雑な路なのでしょうか

d0082305_1430135.jpg
湧水の近くに車を置いて、流れに沿って森の中をしばらくいくと人家があり、その先はいきなり森が開け向こうには八ヶ岳
おやっ、なぜこの方角に八ヶ岳が見えるのでしょう
後ろを振り返り方角を確かめますが、判りません
私の方向感覚ではそこにあるべきは北アルプスの方角です
私の方向感覚なんて当てには出来ませんが、ゴウ介家は山男、登山の指導もしている人です
その彼が首をひねります

何か奇妙な感覚を引きずりながら、御幣の縄で仕切られた結界をくぐり神社跡から再び森に入ります
稗之底村の産土神(うぶすなかみ)、大先神社跡のようです
静寂の森、熊笹に覆われた路なき路、水音だけが響きます
やがてミズヒキの群生
d0082305_14304178.jpg

少し水音が近づくようです、やがて水音はさらに激しくなり眼前に滝が出現
小さな流れの小さな滝ですが、澄み切った水を泡立たせ小さな滝壺に流れ落ちます
こんな滝があるとは予想していませんでした
心が静まるような素敵な滝です

森はまだまだ続きます
d0082305_1431162.jpg

しかし、日も暮れかってきています、今日はこのあたりで引き返した方がよさそうです
これから先は後日に探索、引き上げましょう

ノエルの森ではすでにハービーグー家が待っています
さあさあ、上がってくださいな
奇妙なお散歩で少し遅くなってしまいました
みんなで宴の準備です

私は前菜に絹ごしのお豆腐を準備しますので、お刺身を角皿に盛ってくださいな
今日は鯛とサワラのお造りです
ゴウ介家から「鯖の山椒煮」と「ゴーヤチャンプル」も届きます
まずはビールで乾杯です
暮れなずむノエルの森の宴の話題は
先ほどの奇妙な方向感覚の話題です
磁場でも歪んでいるのでしょうか、などと盛り上がり

ここらで「古酒」のご登場
さて本日のメインです
いつ作ったの、と皆さんいぶかりますが
実は森に来る時、家内が持たせてくれた「牛筋の煮込み」です

ガラスの四方鉢でお出ししましょう、和芥子を添えて

「古酒」もかなり進みます



明日もう一度探索してみましょう

乙事の森、稗之底





稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
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怪 し の 森 散 策
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稗 之 底 散 策
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2007年 09月 07日

稗 之 底 散 策

台風直撃
でももう大丈夫、ノエルの散歩を済ませてきました

07-9-1

昨夜は11時ごろの到着でしたが
眠くて眠くて、途中で家内と運転を代わってもらいました
この所、特に夜間の運転が辛くなりました、歳のせいでしょうか
しかし朝は5時・・・
ノエルのクシャミで飛び起きます

顔の上でクシャミするのはやめてください

びっくりします、おまけに顔中べちゃべちゃです

ノエルの森を少し見回り
まだレンゲショウマが咲いています、ミズヒキがたくさん咲きました
小さなお花ですが咲くととてもうれしいお花です
所々の櫨が少しだけ色づいています、小さな秋ですね
家内も起こしてみんなで防火帯を歩きましょう
チャメちゃん家は来ていますね、でもまだ寝てるようです
萩のお花が咲いてます
白山風露に女郎花、吾亦紅、秋のお花が咲いています

森のデッキで朝食です
気温は多分16度くらいではないでしょうか、少し寒いくらいです
さて今日はどうしましょう
ぱん・パ・パン」で食パンと「カスタードロング」を仕入れましょうか
そして「稗之底湧水」を歩いてみましょう

そうと決まれば即出発です
いつもならお風呂、お買い物はノエルはお留守番なのですが
今日は一緒に「稗之底湧水」のお散歩です
鉢巻道路から左に下り、お蕎麦の「おっこと亭」の前から森に入ります
駐車場には誰もいません、開店は10時から、まだ30分ほど有りますね
少し湧水の近くを歩きましょう
「ぱん・パ・パン」の前の道を少し上ると水音が聞こえてきます、「稗之底湧水」
かなりの水量が湧き出しているようです
その水が森に小さな流れを作ります、その流れ沿いに少し歩きましょう「稗之底散策路」の看板が出てますね
鬱蒼の森に木霊する水音を聞きながら小道を少し歩くと「ミズヒキ」の群生、素敵ですね
かなり古びた「鳥獣慰霊碑」があります、「大先神社」のあったところでしょうか
d0082305_841389.jpg
少し行くと今度は「ツリフネソウ 」や「黄ツリフネソウ」の群生
小さな流れですがその勢いはかなりです、小さな急流となって流れます
前にもお話しましたが、この流れやがては富士川となる流れです

そろそろ開店の時間のようです

引き返しましょうか

鬱蒼の森の

小さな急流の水音を残して




稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
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妖 し の 響 き・稗の底
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続・妖 し の 森
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妖  し  の  森  ・稗の底
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稗 之 底 散 策
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by takibiyarou | 2007-09-07 06:37 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)
2007年 09月 01日

幻の村のパン屋さん

07-8-25 の続きです

朝食の後パン屋さんに電話します
「カントリーキッチン」食パンのとっても美味しいパン屋さんです
でも、予約は一杯・・・
一窯で10本くらいしか焼けないので、競争率の高いパン屋さんです
仕方ありません、お風呂のついでに別のパン屋さん「ぱん・パ・パン」に行くとしますか

お散歩で頂いてきた野の花を幾つかの花入れに生けてみます
桔梗、オトコエシ、白山風露、そしてススキ
丁度無駄なく生けることができました、青磁の鉢のお水も替えて

家内が呼んでいます
TVで八ヶ岳をやっているようです
いけません、森のパン屋さんなどと言っていますよ
富士見高原だそうです、ますますいけません
森のパン屋さん「ぱん・パ・パン」・・・出てしまいました
まだ夏休み、これでまたこのパン屋さんも一杯になるでしょう・・・

ゴウ介家の車でお風呂です
そろそろお風呂が見えてきたとき、ゴウ介家の顔が曇ってきました
お鍋をコンロに掛けっぱなしで来たかもしれない
電気のコンロなので即火事は無いでしょうが、部屋にはゴウ介もいます
心配です、往復でも3,40分、私達はゆっくり浸かっていますのですぐに見に帰ってくださいな

夏休みとはいえ朝のお風呂はガラガラ
客は一人、今年から地元の大学に通っているという学生さん一人だけ
この人なつっこい学生さんと色んなお話し出来ました
若いのに大変礼儀正しい好青年、気持ちのいいお風呂です
しかし、夏はお湯がなかなか冷めないので、長湯するには熱すぎます
そうこうしていると、ゴウ介家が帰ってきました、どうやら無意識のうちに消してあったようです、一安心でした
さて、お買い物でもしましょうか
お昼はゴウ介家が鴨肉を焼いてくれるそうですので
夕食の用意、ハービーグー家とゴウ介家をお招きして宴です
帰りに、パンを買って帰りましょう、朝方TVでやっていた森のパン屋「パンパパン

乙事(もののけ姫の「乙事主」の名前のモデルとなった地名)から高原に上り
町営のお蕎麦スポット「おっこと亭」の前を左に森の中に入ります
鬱蒼とした森の中、そこに森のパン屋さん「ぱん・パ・パン」は有ります
そういえばこのあたり、たしか元「稗之底村」、なんとも不思議な地名ですね
幻の村、旧稗之底古村址と記憶しています
d0082305_7452481.jpg

この村は境方十八ヶ村に数えられる古村でしたが、高冷地での厳しい寒さで引越しを余儀なくされもっと下の立沢村・乙事村に1763年頃移住した伝えられています
なせ先人が生活条件の悪い1400m近いこの土地に村をつくったのか
八ヶ岳山麓の高台に建てられた「大先神社」、その意味は・・・・・と歴史の謎は深まります

しかし、今もなお「稗之底湧水」からは懇々と水が湧き小さな流れを作っています
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この流れ、やがて日本一の河口幅をもつ富士川の源なのです

今では鬱蒼の森があるばかり、人家はパン屋さんただ一つ

幻の村のパン屋さん

閑話休題
やはりTVの力は凄いです
森の奥深くのパン屋さんですが
駐車場も満杯です、やっと留めて店内に入ります
しかし、ここでも行列・・・
何とかお昼の鴨肉に合いそうなフランスパンとライ麦パンを入手
人気の名物「カスタードロング」をお土産用に予約しときましょう

さあ、かえってビールです

鴨肉を焼いてフランスパンでお昼です


アグの森のランチです


          先ほど 「稗之底湧水」をお散歩してきましたので
          画像を追加致します

by takibiyarou | 2007-09-01 08:17 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)