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2014年 03月 24日

乙事のこと その二 「遠近」

さて、「遠近」、これ何と読むのでしょうか??

先日、当地の不思議な小字名「乙事(おっこと )」についての記事を書きました
そこで、「乙事」(おっこと)はかつて音骨・乙骨(おつこつ)と呼ばれていた所まで、何とかたどりつくことが出来ました

しかしながら

この地がむかしむかし、なぜ、(おつこつ)と呼ばれていたかについては

まだまだ、謎の中・・・

と結ばざるを得ませんでした

ところが
その後、「富士見町史 上巻」を読み進めるうち
何とかその疑問の答えとなる記述を見つけることができたようです

乙事の語源、由来
諏訪神社というと、全国に一万余の分社を持つ現在の諏訪大社のことで諏訪大社上社(諏訪市)・諏訪大社下社(下諏訪町)の二社からなっている。
乙事村には古くから鎮守神とか産土神、または氏神をまつる神社が二社あって、この二社は、ともに文化八年(1811)諏訪明神を勧請して乙事諏訪神社上社・下社といった。
たまたま、昭和二十三年(1948)上社が火災にあい、復旧にあたって、下社の本殿を上社に移して本殿とし、上社・下社を併合して一社とすることにし、現在の乙事諏訪神社となった。
上社は、はじめ御別当社として室町時代の延徳二年(1490)、いまの地に鎮座したといわれる。そのころ、のちに廃村となった稗之底村の一部の人々は、すでに乙事村に下ってきていた。乙事村の名前は、おちこち(遠近)からきているといわれるように、稗之底村をはじめ各地から集まった人によって構成された。
「富士見町史 上巻」第五編 第十五章 第三節 諏訪社 
乙事諏訪社の沿革の項 P1259 執筆者 竹内美幸 
おちこち(遠近)・・・??

早速「遠近」を辞書でを引いてみますと

おち‐こち〔をち‐〕【近】


  遠い所と近い所。あちらこちら。

 

  将来と現在。昔と今。

 

 おちこちびと【遠おちこちびと【遠近人】

  あちこちの人。


とある


「おちこち」


主に詩歌で使われる日本古来の美しい言葉であるような

乙事村は各地からの「おちこちびと」からなった村で

「おちこち」遠近、それが「おつこつ」、そして乙骨・音骨の文字が当てられれ

現在の「おっこと」乙事となった

なるほど・・・


d0082305_10340702.jpg
乙事の杜


この説の信憑性は確認することは出来ませんでしたが

それでも

やっと長年の、胸の閊えがとれた思いです











by takibiyarou | 2014-03-24 04:46 | 物語 | Trackback | Comments(10)
2014年 03月 21日

乙事のこと

ここ八ヶ岳の西麓に「乙事」と呼ばれる地域があります
読み方は(おっこと)
現在では富士見町の経営する「おっこと亭」なる蕎麦屋が有名ですが・・・
「乙事」、非常に変った名前ですね
「乙事」といいますと、直に思いつきますのが宮崎駿監督の「もののけ姫 」に
登場するイノシシの親分「乙事主 」でありますが
宮崎駿監督の山荘が直近くにあることから、この地名(小字名)からの発想と伺えます
しかし奇妙な小字名です、なにやら曰くありげな小字名ではありませぬか
そしてまた直近くには「烏帽子」との小字名もある、「烏帽子(えぼし)」とは高貴な位の方々の正装用の被り物であります
(やはり「エボシ御前」として「もののけ姫に」登場、また乙事村の枝村に当たる「小六新田」や県境の「甲六川」、そしてきのこのハナイグチの地方名「ジコボウ」までジコ坊として登場

そんな高貴な名がなぜここに・・・

私がこの地に通うようになってから
これらの小字名の由来が常に気に掛かっておりましたが
念願の超分厚い「富士見町史上巻」を入手しましたので少しわかるかもしれません
超分厚い本を開いてみます

まず、富士見町史の中から
「乙事」に関する事項を抜き出してみますと

 ■1582年(天正10)徳川家康、北条氏直と乙事に対陣する
          (乙事陣場 (おっことじんじょう))
           乙事の五味太郎左衛門、家康に属して活躍する

 ■1656年(明暦 2)稗の底村を廃村 として村民は「乙事」「立沢」に別れ暮す

 ■1722年(享保 7)乙事法隆寺十一面観音堂 建立

 ■1780年(享保 7)乙事村出身の三井透関 、甲州街道の改修を行う

 ■1811年(安永 9)乙事で諏訪神社の分霊を受ける

 ■1853年(嘉永 6)乙事村、譲り受けられた諏訪大社上社旧弊拝殿を移築
           乙事諏訪神社

 ■1875年(明治 8)立沢村と乙事村が併合して本郷村となる

 ■1883年(明治16)本郷村が立沢村と乙事村に分かれる

 ■1889年(明治22)市制及び町村制施行される
           立沢村と乙事村が再び合併して本郷村となる


これだけ見ましても
昔からかなり重要な地域とされていたことが浮かんできますね

乙事陣場(おっことじんじょう)は現在「乙事陣場跡」として石碑が立っています
この説明文をば拝借しますと
「いまに陣場の小字名を伝える足場溜池の南側一帯は、徳川軍が布陣したところである。
織田信長が本能寺で滅亡するや、諏訪頼忠はいち早く諏訪の旧領を回復して自律した、しかし徳川家康が諏訪氏を服従させようと攻略する。
いっぽう北条氏も信州を支配しようと四万三千の大軍を率いて佐久方面から進撃してきた。
このときこれを察知した徳川方三千は乙事まで退いたが、北条軍は一里近くまで迫り、両軍はまさに乙事原で衝突しようとする寸前であった。
太郎左衛門は具に北条軍の動静を探り、適切な進言をしたので、徳川軍は一兵も損なうことなく新府に退くことが出来た」
とある

適切な進言とは
「富士見町史 上巻」資料編 一乙骨太郎左衛門覚書 によると

其時太郎左衛門申上候ハゝ、古府中之城ハ悪敷所にて御座候、うしろはせき水寺と申山御座候、南は善光寺の山、北ニハ遊之上之小山、西ハあけたニ而御座候、加様ニ悪敷城ニ而御座候間、御無用可被遊と申上候へハ、其の儀ならハ駿河へ御馬・・・・・

要約すれば
其の時太郎左衛門が進言したのは、古府中之城(武田氏の館)は良くない場所です。背後はせき水寺(積翠寺)という山があり、南は善光寺の山、北には遊之上之小山、西はあけた(上田 あげた 高い土地にあって水はけのよい田)があります。このように悪しき城なので、古府中之城へ在陣することは無用です・・・・・との進言

この手柄を立てたのが乙事の名主「五味太郎左衛門」であります

結局北条は上州を、徳川は甲斐・信濃を得るという和議が成立、諏訪頼忠は徳川配下となり

頼忠の息子頼水が高島藩初代藩となりました

五味太郎左衛門は、この間の功績によって甲州に拾貫文の知行を拝領し、後になって家康に召し出されて姓を「乙骨」と改め、旗本に取り立てられました    


「乙骨」の名が登場


「富士見町史上巻」の乙事村の項を開いて見ますと

乙事村は立沢とともに北部の最も高いところに位置し、標高は1,000mを超える。村内を甲州街道(善光寺道)が通じている。
村名は古くは乙骨(おつこつ)と呼ばれ、また建仁二年(1202)の「諏訪郷名改帳」に音骨とあるのが、これであるとも言われている。
境筋一帯は戦国時代に度々戦場となった地域であり、この付近でも何度か戦闘が行われた。中でも天正十年(1582)徳川家康と北条氏直がこの辺りで対陣したことはよく知られており、「徳川家忠日記」には「(八月)三日戊子、おつこつ迄出陣はり候」と記されている。村の南方に陣場とよぶ地名が残っているが、これがこのとき徳川側が陣取った乙事原であると伝わってる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
、享保十八年(1733)の「諏訪藩主手元絵図」には一三0軒、明治には二三0余戸、一,一00余人までになっている。
文化六年(1809)乙事村では村内諸家の由緒調査を行い、その結果を「古代の儀御尋ねに付き書上帳」と題する帳面にまとめている。・・中略・・・・
廃村となった稗の底村 からの移住者が六家あると書き上げられていることも注目される。・・中略・乙事村は稗の底村を預かった形になっていた。・・・中略・・・・・
乙事村の内は大きく上村と下村の二つのまとまりがあって、それぞれの氏神を祀っていた。最初御別当社と称した上村は、延徳二年(1490)の勧請(離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭することとされ、また下社は乙骨太郎左衛門(五味氏)の屋敷神であったと言われる。上社と下社の間にはこの氏神の問題を中心に長く争いが続いたが、文化年間に入ってようやく和解が成立し、文化八年(1811)諏訪神社の分霊を受け、上社を乙事総社、下社を乙事鎮守社とすることが定められた。そして祭神は三月(二の酉)-現在は四月十五日-の酉の祭に上社から下社へ、下社から上社へ遷座する慣例となったという。
中世来の有力な土豪であった五味氏は、はじめ武田氏に仕えたが、同氏の衰運とともに乙事に身を引いて住居した。その後徳川氏が諏訪に進出するとこれに仕え、家康の関東入国に従った。この際、姓を乙骨と改めており、乙骨氏は代々旗本として幕府に出仕している。
また村に残った一族は五味氏として有力な名主家を形成した。

「富士見町史 上巻」より  p687~688


あの凄いエリート一族乙骨家」のルーツがこの地なんですねー

乙骨一族といいますと、十一代目乙骨彦四郎耐軒 江戸後期の儒者

そして、その子であり「君が代」の歌詞選出にかかわったとされる乙骨太郎乙おつこつたろういつ)

またその三男の乙骨三郎」 は尋常小学唱歌の「日の丸の歌」「浦島太郎」「汽車」「池の鯉」の作詞を手がける

そして 2010に亡くなられた、元東芝EMI社長「乙骨剛」

等々、凄い人物を排出いている一族です


横溝正史は病に侵され、この富士見高原療養所 で過ごします

その信州を舞台とした小説「真珠郎」に乙骨三四郎という人物が登場するそうですが

これもこの地「乙事」からの発想かと


かつて乙骨、音骨と呼ばれ


今では、八ヶ岳西麓の小字名に過ぎない「乙事」ではありますが


そこには、武田氏、諏訪氏、北条氏、徳川氏、との


密接な関係が秘められていたのですね


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乙事諏訪神社



しかしながら

この地がむかしむかし、なぜ、乙骨と呼ばれていたかは

まだまだ

謎の中・・・





by takibiyarou | 2014-03-21 10:51 | 物語 | Trackback(1) | Comments(6)
2013年 04月 17日

YAP、その遥かなる記憶

前項で日本文化とヘブライとの奇妙かつ膨大なる類似点に触れてきました
このことは当然「日ユ同祖論」に繋がる訳なのですが
DNAの解析が進んできていますので、科学的に見れば結論がつけられるのでは、との疑問が起こります
しかしながら、この分野に対しての私の知識、理解力共に欠如しておりますので、触れる事を避けてきました
しかしこの問題、やはり避けて通る事は出来ないでしょう
大変重要なる科学的データでありますので、勇気を持ってご紹介させていただきます


最近のDNAの研究から、日本人の多くが「YAP(-)」と云う極めてまれなる遺伝子を持つと言われていますのは
ご存知の通りだと思います

DNAは男⇒XY、女⇒XXと習った記憶がございます

この中で「Y」は受精による組み換えの影響を受けない

このことから、母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており
1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展したそうです

ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統があり
分析から日本人の中には、D2系統とO2b系統が存在することが判明したそうです
D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり
Y染色体の中でも非常に古い系統である、らしい・・・アジアでは日本の他チベットに残るのみ
これに対し、中国、朝鮮半島の人々は南方系のO系統であるという
ということは、大陸から半島にかけての人々が日本人と同祖とは考えられないと

詳しく見ると
D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42~56%(チベット33%)で、韓国ほぼ0%である

そして本土日本と沖縄にO系統が多少混じるのみ


YAP (Y染色体)(YAP Yせんしょくたいハプログループ)とは
父系で遺伝するY染色体の特定のSNPを持つ集団(ハプログループ)のうち「YAP(M1)」と呼ばれるSNPを
持つ集団のことである
(私には理解不能なんですが・・・)
アフリカで多く見られ、中東、ヨーロッパの一部でみられるほか
日本、チベット、アンダマン諸島のジャラワ族やオンゲ族などで見られるのみである、そうな


このDNA、日本人の「血の記憶」から考えますと

大部分のD2系統は、おそらく地中海沿岸や中東から東方に移動

そしてチベットにその痕跡を留め

遥か極東の島にたどり着いたと見るべきではないでしょうか

そのD系統「YAPD遺伝子」はアイヌ人、沖縄人となり縄文化の花咲かせる

そしてその後、大陸や朝鮮半島からの渡来人によりO系統が付加され

現在の本土日本人となる

こんな図式が見えてきませんでしょうか

これらヒトのDNAに残された記憶と

前項で取り上げた摩訶不思議なヘブライとの類似を重ね合わせて見てみますと

なんだか

「日ユ同祖論」

まんざらの御伽噺ではないような

そんな気がしてきませんか・・・

d0082305_759224.jpg


こんなお話

今宵のお肴に

いかがでしょうか、ねー




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by takibiyarou | 2013-04-17 08:00 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2013年 04月 14日

消えた10枝族

ノエルの森のある富士見町に「乙事(おっこと)諏訪神社」が有ります

:::::::::::::::::
嘉永6年(1853)に諏訪神社上社の旧社殿を移築したもので、元和3年(1617)の建造物という
桃山様式のすぐれた建築にて、本殿をもたない諏訪神社造りともいうべき独特の造り
従来国宝に指定されていたが、昭和23年に火災にあったため取り消されています
昭和25年に復元修理され、現在は国の重要文化財となっています
:::::::::::::::::

諏訪神社といえば「御柱祭」で有名ですね
山中から御柱として樅(もみ)の大木16本を伐りだし
4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮奇祭です
正確には満6年間隔で行われのですが、慣例として数え年の7年目ごとという意味で「7年に一度」と表記されることが多いようです

このお祭りについて少し調べていますと、かなり面白い事が解ってきます
この神として祭られる「柱」(ハシラ)は、遠く西方ヘブライ王国の神「アシラ」から来ていると云う
そして、かつてかの地でも同様の祭りが執り行われていたそうです
なぜ遠いヘブライ王国(現在のイスラエル)の神が、この地にやってきたのでしょう
古代日本とヘブライとの関わりは・・・
ヘブライといえば、ダビデ、ソロモンの秘宝、旧約聖書などが思い起こされますが
どれも、諏訪地方との関係は思いつきも致しません
しかしその昔、シルクロードで繋がっていた事も事実です
調べていくうちに、あるサイトにたどり着きました
ここに記されている日本とヘブライとの数多くの類似点に戦慄さえ覚えます

まずは言葉、日本語とヘブライ語の類似

ミカド (帝)     - ミガドル (高貴なお方)
ミコト (尊)     - マクト  (王、王国)
ネギ  (神職)    - ナギット (長、司)
ミササギ(陵、墳墓)  - ムトウサガ(死者を閉ざす) 
アスカ (飛鳥)    - ハスカ  (ご住所)
ミソギ (禊ぎ)    - ミソグ  (分別・性別) 
ヌシ  (主)     - ヌシ   (長)
サムライ(サムライ)  - シャムライ(守る者)
ヤリ  (槍)     - ヤリ   (射る)
ホロブ (滅ぶ)    - ホレブ  (滅ぶ) 
イム  (忌む)    - イム   (ひどい)
ダメ  (駄目)    - タメ   (ダメ・汚れている) 
ハズカシメル(辱める) - ハデカシェム(名を踏みにじる)
ニクム (憎む)    - ニクム  (憎む)  
カバウ (庇う)    - カバア  (隠す)
ユルス (許す)    - ユルス  (取らせる)
コマル (困る)    - コマル  (困る)
スム  (住む)    - スム   (住む)
ツモル (積もる)   - ツモル  (積もる)
コオル (凍る)    - コ-ル  (寒さ、冷たさ) 
スワル (座る)    - スワル  (座る)  
アルク (歩く)    - ハラク  (歩く)
ハカル (測る)    - ハカル  (測る)
トル  (取る)    - トル   (取る)
カク  (書く)    - カク   (書く)
ナマル (訛る)    - ナマル  (訛る)
アキナウ(商う)    - アキナフ (買う) 
アリガトウ(有難う)   - アリ・ガド(私にとって幸福です) 
ヤケド (火傷)    - ヤケド  (火傷) 
ニオイ (匂い)    - ニホヒ  (匂い)
カタ  (肩)     - カタフ  (肩)    
ワラベ (子供)    - ワラッベン(子供)
アタリ (辺り)    - アタリ  (辺り)
オワリ (終わり)   - アハリ  (終わり)

まだまだ類似する言葉は数百にも及ぶとか
そして、カタカナと殆ど同じ文字の数々

そういえば、現在皇室の紋章とされている「菊花紋」はもともとヘブライの紋章と聞いたことがあります
これは、松本清張の古代史ミステリーの代表的長編「火の路」の中でも取り上げられ、
ペルシア人・ゾロアスター教徒の飛鳥時代伝来説が描かれています

そして、やはり有名なお祭りとして、京都の祇園祭」があります
このお祭り、日本の伝統的なお祭りなのですが、その「山鉾」に飾られる織物には遠く砂漠の風景が・・・
そして、この「山鉾巡行」の行われるのが7月17日、なんとこの日はかつて「ノアの箱舟」がアララテ山に
漂着したとされる日(旧約聖書)
そのアララテ山は現在のタマーガ州ハランにあります
これは天孫降臨の高天原、タマーガハランではありませんか
また、7月17日は四国剣山にて、神輿を山に担ぐという奇祭が行われるという
日本のお祭りでなじみ深いこの「神輿」、失われたアークではないかとの見方もある
映画レイダースで登場の、モーセの十戒の書かれた石板を納めた「聖櫃」、あれです
ソロモンの秘宝が四国、剣山に眠っていると・・・

このような古代日本とヘブライとの多くの類似点から、かつてヘブライから忽然とその姿を消した10枝族
、または12枝族が日本に渡り国を興したのではと云う、「日ユ同祖論」に結びつくのです
この日本人はユダヤ人であったとする推論の存在は知ってはいましたが
どうせ、日本にキリストの墓がある云々のお話かと、あまり真剣に考えてはいませんでした
しかしこれほどの符号を目の当たりに致しますと、とても偶然の一致とは考える事が出来ません
伊勢神宮のイセはヘブライ語の「イシャ」(助け、救いの意味)、そして神社の構造はイスラエルの「幕屋」、エルサレムの神殿の構造との酷似
神輿(契約の箱、聖櫃では?)を担ぐ時の掛け声「エィサ」はヘブライ語で「イサ」(救い主の意)と同音とか
そしてまた神社には欠かせない「鳥居」、これもヘブライ語で「門」、モーゼはエジプトからヘブライ奴隷集団を
脱出させるとき、殺戮の天使の害から彼らを守る為門の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせたとある
酷似はまだまだある
修験者の額に付ける「兜金」、現在でもユダヤ人は祈りの時に『旧約聖書』の言葉を収めた 「ヒラクティリー」と呼ばれる小さな小箱を額部分に付けるのだそうです
そして「狛犬」、犬とはいえ、殆どライオン、獅子である
しかし、これもダビデ王統を担うユダ族のシンボルであり古代ソロモン神殿の前にも置かれていたと言う
ここまで来ると、否定のしようがありません
また、天皇家との密接な関係からか、あまり学校の授業には登場しなかった、平安京遷都の立役者でもある大渡来人集団「秦氏」の事など、いろいろな文献を読み進めるにつれ、日本人のルーツ、古代史ミステリーにぐいぐいと、引き込まれてゆくのは私だけでしょうか・・・
しかし、いくら何でも東洋人である日本人が白人系のユダヤ人の子孫とは??
ここで考えておかねばならないことは、12支族はイスラエル族、このうちの1支族がユダ族であること、そして『旧約聖書』に登場するユダヤ人に白人は1人もいない
彼らは人種的に「セム系」と呼ばれ、黒髪・黒目で肌の浅黒い人々であったらしい
モーセやダビデ、ソロモン、そしてイエスもみな非白人(オリエンタル)だったと記述されていそうです

昔から、気になっていた童謡
かごめかごめ」、かごめは「籠目」、六芒星をも意味しこれはまさしくユダヤの紋章
あの奇妙な歌詞もヘブライ語として読めば意味が通じるそうな
そして、難解な歌詞の「君が代」また、日本人の心「さくら
さらには、日本語の原点「いろはにおえど・・・のいろは歌」などなど
日本語としては難解な歌詞がヘブライ語として読まれると、また一つの意味をなすこの不思議
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                                 イスラエル12支族


かつて栄えたヘブライ王国12支族は国を二分され、やがてその国をも追われ
忽然と姿を消した10支族は「聖櫃」とともに東方に逃れます、そして様々な種族、文化と交わりながらも
「聖櫃」を守り抜き、やがて東の果ての神秘の島に集結します

この地が、あの神からの「約束の地」だったのでしょうか

なかなか俄かには信じる事の出来そうも無い物語なのですが
以前このブログでもご紹介いたしました、裏桃太郎伝説「悲しき鬼の物語」など
古代日本に、明らかに中国、朝鮮の人とは異なる、鷲鼻、紅毛、碧眼、の大集団が
この地に渡来していた痕跡が各所に残されている事は、確かなようです

鬼伝説然り、天狗然り

しばらくはこのミステリーロマンから離れられそうにもありません・・・

はるか古代に思いを馳せ

盃を重ねるのも

また一興かも知れませんね




「日ユ同祖論」の謎




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by takibiyarou | 2013-04-14 18:24 | 物語 | Trackback | Comments(2)
2012年 11月 30日

入内雀

父の残したコレクションの中に金泥色紙の大和絵があります

藤原實方とあり

百人一首風の大和絵に

有名な歌が添えられてあります

何方の筆になるかは判りませんが

これが実に達筆、優雅な筆使いに見惚れます

歌は

           「桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげにやどらむ」
 
         
藤原實方は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある、当代きってのプレィボーイ


そんな實方の身にこの歌が発端となり、事件はおこります

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桜刈り、一条天皇は宮中の人々とお花見に出かけます
ところが突然の雨
人々は東屋に雨宿りいたしますが、藤原実(實)方はただ一人
桜の下に留まり、花陰でこの歌を詠みます

お花見なのに雨が降ってきたけれど
どうせ濡れるのならば花と共に濡れましょう
と、そんな意味なんでしょうか

この歌は宮中の人々の喝采を集めますが
ただ一人、若い藤原行成だけが

「技巧に過ぎて、真実味が無い」と批判します

この批判に短気な実方は怒り、行成の冠を奪い庭に打ち捨てしまいます

対し行成は、大人の振る舞い

何も言わず、供に拾いに行かせます
このいきさつをご覧になられた一条天皇は
實方の振る舞いを叱り
「枕詞にある陸奥の三松、その中でも阿古耶の松はまだその所在が解らない、 これを見て参れ」
と命じます

これは、陸奥への左遷です

そして一方の行成を蔵人頭(くろうどのとう)に取り立てます

しかし實方は松を探せば直に都に帰れると高をくくり、単身陸奥へ向います

どうも、實方がこんな大人気ない行動に出てしまったのには訳があったようです
誰しもが認める相愛の仲でありました清少納言に、若い藤原行成が急接近

清少納言も行成に歌を送ります

    「夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」

    まだ夜中だというのに鶏の声を真似して私を騙そうとしても、逢坂の関が決して人を通さないように
    私は貴方に騙されませんよ

ちょっとした三角関係の様相です


實方の奥州行きを知った清少納言は歌を贈ります

    「思ひだにかからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしそ」  

    貴方が陸奥の息吹の里にまで行かなくてはならないとは驚くばかりです

この歌に、實方の返歌

    「かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを」

    私の思いは”どうだこうだ”言い表しがたい燃えるようなものですよ
      (さしも草とはもぐさの原料となるヨモギのことらしい)

また、清少納言も歌を返します

    「とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河 袖のわたりはあらじとぞ思ふ」

    貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています

かくして実方は都から奥州古道を陸奥に向けて下ります


そして

長徳4年12月(999年1月)

任国で実方が馬に乗り笠島道祖神前を通った時
乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになってしまいます
没時の年齢は40歳ほどだったという
当時の陸奥は地区の孤島ともいうべき土地
実方はこの仕打ちへの怨みと京都への想いを募らせつつ
失意の内に陸奥で没したのでした

そして都では
都に実方の訃報が届くと同時に、奇妙な噂が流れ始めます
毎朝、京都の内裏の清涼殿へ1羽の雀が入り込み、台盤(食事を盛る台)の飯をついばんであっという間に平らげてしまうというのです
人々はこれを、京に帰りたい一心の実方の怨念が雀と化した、もしくは実方の霊が雀に憑いたといって内裏に侵入する雀であることから「入内雀」、または「実方雀」と呼びました

またこの雀は、農作物を食い荒らしたともいい

人々はこれを実方の怨霊の仕業として

大いに恐れたという


          ウィキメディアより








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by takibiyarou | 2012-11-30 08:10 | 物語 | Trackback | Comments(4)
2008年 09月 22日

く わ ば ら く わ ば ら

地 震 雷 な ん と や ら
親爺の権威喪失は言われて久しいですが
近頃、地震と雷がかなり多いような気がします
先日もお山でゴロゴロと鳴っておりました、山でこれに会うとかなり怖いですね
この雷、日本全国ほぼ同じ条件で、と思っておりましたが
昔、北陸で学生をやっていた時です
ころは冬、外は雪です
吹雪の様相、と、いきなりビカビカ、ドドドンー
雷です
一緒にいた友人に、「雪が降りながら雷だよ!不思議だねー」
と、同意を求めると
友人はいぶかしげに私を見て
「雷は昔から冬と決まっているやないか」と
雪雷(ゆきがみなり)と言うらしい
これには正直驚きました
私の生まれた地方では、雷がなると梅雨が明けます、夏の到来
どうもこの常識は全国的ではないようです、日本海側では雷は冬の風物詩

雷が鳴れば、蚊帳に逃げ込んだり、慌てておへそを隠したり
はたまた「くわばらくわばら」とお題目をとなえたり

この「桑原桑原」と菅原道真のお話は有名ですが、他にも説があるようです

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まずは菅原道真のお話から

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

宇多天皇に重用された菅原道真は、後に天皇が上皇となったころから勢力を伸してきた藤原時平に
宰府へ左遷されるのです
道真は太宰府で軟禁状態のまま失意の日々を送り、この世を去ります
やがて、都では異変が相次ぎます
藤原時平や道真の左遷に力した人々の死去、そして延長8年内裏に落雷、雷に打たれ死者が出ます
このことにおびえた醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいます
道真は雷神となり祟ったのです
しかし、道真の所領であった「桑原」には決して雷は落ちなかったそうです

そして諸説

昔昔、雷神が足を踏み外し、農家の井戸の中に落ちたとき
農民がフタをして閉じ込めたら
雷神が、「俺は桑の木が嫌いだから、桑原と唱えたら二度とお前の所には落ちないだから出してくれー」
と頼んだそうな
それから雷鳴がとどろくと桑原と唱えるようになった、とさ

もう一つ
三田市欣勝寺

昔、あわてものの雷の子が、欣勝寺の古井戸に落ちてしまった
どうしても外へ出られないので、「助けてくれ一!」と大声で叫んだ
和尚さんは、井戸にふたをしてこらしめた。
雷の子は、「助けておくれ。桑原へは二度と雷を落とさない。」と言ったので、和尚さんは助けてやった
雷の子は帰って親に、一部始終を話した。雷の親は、和尚さんにたいへん感謝し
雷たちを集めて、「これから欣勝寺や桑原には絶対に落としてはならないぞ。」ときつく戒めたという
それからというもの欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがないという

この手の話はかなり全国的に伝えられているようですね

by takibiyarou | 2008-09-22 06:58 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 21日

ぬ な 河 の 底 な る 玉 の 物 語

今年の諏訪大社初詣のとき、ふとある古代のロマンスを思い出しました
この諏訪大社は出雲から追われたオオクニヌシの子タケミナカタを祭る神社とされています
タケミナカタ、「建御名方神」この名前には少しだけ記憶があるようです
昔昔、ある地方のある物語の映像化に携わった事がありました、その物語の主は「建御名方神」の父とされる「大国主(オオクニヌシ)」と母とされる「奴奈川姫( 沼河比売 ぬなかわひめ)」のお話でした

この「奴奈川姫」の名は「日本書紀」には登場しませんが「古事記」の「大国主の神話の段」に登場するそうです

昔、 高志の国(糸魚川地方)に賢く、美しい姫がおられたそうです
その頃出雲の国の「大国主命」は方々の国で妻を求めかねていました、そんな折、高志の国の姫の噂をお聞きになられ、求婚の為に
遠いこの地にまでお出ましになられました・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八千矛の 神の命は、
八島国 妻纏(ま)きかねて

遠々し(遠い通り) 高志の国に
賢し女(さかしめ)を ありと聞かして、
麗し女(くはしめ)を ありと聞こして、
さ婚ひに あり立たし

婚ひに あり通はせ、
大刀が緒も いまだ解かずて、
襲(おすひ)をも いまだ解かね、
嬢子(をとめ)の 寝す(なす)や板戸を
押そぶらひ 吾が立たせれば、
引こづらひ 吾が立たせれば、
青山に ぬえは鳴きぬ。
さ野つ鳥 雉子(きじし)は響(とよ)む。
庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く。
うれたくも 鳴くなる鳥か。
この鳥も うち止めこせね。
いしたふや 天馳使(あまはせづかひ)、
事の 語りごとも こをば

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   八千矛の 神の命は、
   方々の国で妻を求めかねて
   遠々し(遠い通り) 高志の国に
   賢し女(さかしめ)を ありと聞かして、
   麗し女(くはしめ)を ありと聞こして、
   求婚にお出ましになり
   求婚にお通いになり
   大刀の緒もまだ解かず
   羽織もまだ脱がずに
   娘さんの眠っておられる板戸を
   押しゆすぶり立っていらっしゃると
   引き試みて立っていらっしゃると
   青い山ではぬえが鳴いている
   野の鳥のきじは叫んでいる
   庭先でもにわとりも鳴いている
   腹が立つさまに鳴く鳥だなあ
   こんな鳥はたたいて鳴き止めさせてくれ
   下におります走り使いをする者の
   事の語り伝えはかようでございます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここにその奴奈川姫(ぬなかはひめ)、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、


八千矛の 神の命
ぬえくさの 女(め)にしあれば、
吾が心 浦渚(うらす)の鳥ぞ。
今こそは 吾(わ)鳥にあらめ。
後は 汝鳥(などり)にあらむを、
命は な死せたまひそ。
いしたふや 天馳使、
事の 語りごとも こをば。

青山に 日が隠らば、
ぬばたまの 夜は出でなむ。
朝日の 咲み(えみ)栄え来て、
たくづのの 白き 腕(ただむき)
沫雪の わかやる胸を
そ叩き 叩きまながり
真玉手 玉手差し纏(ま)き
股(もも)長に 寝(い)は宿(な)さむを。
あやに な恋ひきこし。
八千矛の 神の命。
事の 語りごとも こをば。


かれその夜は合わさずて、明日(くるつひ)の夜御合(みあひ)したまひき。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   みこと
   わたくしはしおれた草のような女のことですから
   わたくしの心は漂う水鳥
   今こそわたくし鳥でも
   後にはあなたの鳥になりましょう
   どうぞ殺さないでくださいませ
   下におります走り使いをする者の
   事の語り伝えはかようでございます

   青山に 日が隠らば

   真っ暗な夜になりましょう
   朝のお日様のようににこやかに来て
   楮(こうぞ)のような白い腕
   淡雪のような若々しい胸を
   そっと叩いて手をとりかわし
   玉のような手をまわして
   足を伸ばしておやすみなさいましょうもの
   そんなにわびしい思いをなさいますな
   八千矛の 神の命
   事の語り伝えはかようでございます


それで、その夜はお会いにならないで、翌晩お会いになりました

そして「大国主命」と「奴奈川姫」 は結ばれ「建御名方神」が生まれるのです

このお話は単に「大国主命」と「奴奈川姫」とのラブロマンスという意味合ではなく
出雲という文化圏と高志の国の文化圏との出会い、そして融合
言い換えれば当時祭祀の中心となっていた出雲と、祭祀にかかせない玉、翡翠(勾玉)の産地の支配者との関係を意味する記述だと推測されます
この物語をラブロマンスと書きました、勿論映像もその流れの制作となりました
しかし、この物語は本当にラブロマンスなのでしょうか
「奴奈川姫」にはいつも翡翠のイメージが重なります、「ヌナカワ」は「玉の川」の意味を持つとも言われます
おそらく姫川を指すのではないでしょうか
「玉」それは美しくそして少し悲しそうな翡翠です
高志の国(糸魚川)の「奴奈川姫」が身をお隠しになられたと伝えられる姫川の上流は古来、数少ない翡翠の産地としても名高いところです
それに女性を口説くには 「大国主命」の行動はチト乱暴では有りませんか
高志の国に到着したばかりなのに、まだ身だしなみを整えもせず
姫の眠っているその板戸を押したり引いたり、ゆすったり、挙句の果てに煩い鳥を叩けとは

ラブロマンスというよりは、まったく別の匂いがしてきてなりません
翡翠(玉)をめぐる侵略、征服の匂いが

出雲の神話の中に登場する「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)」は毎年「古志」からやって来て娘を食べてしまったといいます、その「ヤマタノオロチ」を「スサノオ」が退治するのです
おそらく出雲の国と高志の国の間に争いがあったのでしょう
そしてこの「ヤマタノオロチ」の尾から出てきたのが「都牟刈の太刀(偉大な力を持つ太刀)」であったともされています
この「太刀」はその後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう「倭建命(ヤマトタケルのみこと)」に渡され、野火攻めから脱出する為に草を薙いだ事から「草薙剣」の名前の由来とされているが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」の説が有力なのだそうです

しかしこれらの神話もあくまで高天原系の天孫族を主役とする神話編者の創作にすぎないとする説も多くあると聞きます
これらの説によると

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本来、諏訪神は信濃国の諏訪地方に発生した有力な地方神だったであろう

おそらく大和政権が東方へと勢力を伸ばす過程で、当初はまつろわぬ神として立ちふさがったのだろう

反抗的な人々が信ずる神だといっても、有力神だけに抹殺するわけにもいかない

そこでマイナーなイメージで神話のなかに組み込んだということが考えられる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまり難しい事柄は私にはわかりかねますが

ここにもまた別の、隠された歴史、伝説があるようですね

今もなお姫川の河底には、美しい翡翠が眠むると言います

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ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 

拾いて得し玉かも
  
あたらしき君が老ゆらく 惜しも      『万葉集十三巻』より







参考にさせていただいたサイト
「フォッサマグナミュージアム」
「奴奈川姫」
「奴奈川姫伝説」
「タケミナカタ」

by takibiyarou | 2008-04-21 05:54 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 03月 03日

風 の 三 郎

先日、「春一番」が吹き荒れました
春の訪れなのでしょうか
しかしお山もまだまだ氷点下、とは言っても、温か肌着を着けていればそれほど寒さを感じることなくお散歩できます
しかし、風があるとそうは行きません
体感温度が大違い、特に素手には容赦ありません、八ヶ岳から吹き降ろす風の冷たさはまた格別です
そんな風は農業にとっても大変な困り者
昔から「やんちゃ坊主の三男坊」として「風の三郎」と呼ばれ、各地で信仰とも結びついてきたようです
新潟県や伊豆諸島にも風の神「風の三郎様」として伝えられ、富山の「越中おわら風の盆」もまた風鎮の祭りと聞きます
石川県鹿西町の鎌宮諏訪神社では長さ1尺余の鎌2挺(ちょう)に、新稲穂と白木綿を供えた後に鎌を神木に打ちつけ
鎌舞と呼ばれる風鎮と豊作・豊漁を祈る神事が行われるそうです
それはこの地方でも同じです、昔から八ケ岳颪(おろし)を和らげるために「風切り」と呼ばれる防風林を植え大切に育ててきました
その八ヶ岳に「風の三郎岳」と呼ばれる峰もあったそうです、「権現岳 」がそうだとする説が有力ですが定かではありません
そしてその山麓には「風の三郎社」が現存しています

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この 「風の三郎社」について在郷の研究者「北村宏氏」はかなり詳細な調査研究をされておられます
そんな八ヶ岳の「風の三郎」を調べていくうちに面白い説にぶつかりました

「風の三郎 」と言えば誰でも思い起こすのが、宮沢賢治の「風の又三郎」でしょう
なんと、この「風の又三郎」は八ヶ岳の「風の三郎岳」「風の三郎社」からの発想ではないかとの説なのです
根拠として、「風の又三郎」の下敷きとなる前作の、「風野又三郎」の一節を上げておられます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。くるくるまわって走れぁいいからね。そうすれば木の葉や何かマントにからまって、丁度うまい工合かまいたちになるんだ。ところが大きなサイクルホールはとても一人じゃ出来あしない。小さいのなら十人ぐらい。大きなやつなら大人もはいって千人だってあるんだよ。やる時は大抵ふたいろあるよ。日がかんかんどこか一とこに照る時か、また僕たちが上と下と反対にかける時ぶっつかってしまうことがあるんだ。そんな時とまあふたいろにきまっているねえ。あんまり大きなやつは、僕よく知らないんだ。南の方の海から起って、だんだんこっちにやってくる時、一寸僕等がはいるだけなんだ。ふうと馳けて行って十ぺんばかりまわったと思うと、もうずっと上の方へのぼって行って、みんなゆっくり歩きながら笑っているんだ。そんな大きなやつへうまくはいると、九州からこっちの方まで一ぺんに来ることも出来るんだ。けれどもまあ、大抵は途中で高いとこへ行っちまうね。だから大きなのはあんまり面白かあないんだ。十人ぐらいでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ッ岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから
『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞こえたんだ。
『やろう』僕はたち上って叫んだねえ、
『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。
『いいかい、じゃ行くよ。』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜巻をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄いよ。

  「風野又三郎」より   9月4日の項
                (「サイクルホール」は賢治の造語で「つむじ風」のことのようです)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんでも、賢治の生涯の親友「保坂嘉内」は八ヶ岳を望む韮崎の出身で、賢治は彼から「風の三郎岳」「風の三郎社」の話を聞き、「風野又三郎」を書き、そして「風の又三郎」に仕上げたのではないかというのです
また1910年、ハレ-彗星が地球に大接近して世の中を騒然とさせますが、このとき「保坂嘉内」は韮崎の自宅から南アルプスの上にかかるハレ-彗星をスケッチしているそうです
そしてそのスケッチに「銀漢(銀河)ヲ 行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遥カニ虚空ニ消エニケリ」と書き記しているのだそうです
この体験を後に賢治が知り 「銀河鉄道の夜」となったのかもしれません

又、「北村宏氏」は「なめとこ山の熊」の熊取り名人「淵沢小十郎」の名前に「小淵沢」
「風野又三郎」「風の又三郎」に登場の地元の子供「嘉助」に親友「保坂嘉内」の一文字が当てられていることを上げ
宮沢賢治が八ヶ岳山麓に並々ならぬ興味を抱いていたと推察されてもおられます

多くの文学との縁深いこの高原に

もう一つの縁を見つける試みは、とても楽しいことですね










by takibiyarou | 2008-03-03 05:13 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 02月 25日

送 り 犬 (おくりいぬ)

先日、散歩の途中ノエルに曳かれてぶんた家にお邪魔いたしました
お宅に上がり座るまもなく、ぶんたが私に襲い掛かります
勢いに押され転がった私に馬乗りになり、私の顔を舐めまわします、そんな大歓迎を受けながら、風呂上りのビールをご馳走になりました
ぶんたは生まれ、素性の判らぬノエルより二周りも大きな、数ヶ月前にぶんた家に保護された幸運のワンコです
ビールをご馳走になりながら、ぶんたとの出会いの様子おうかがいいたしました
大泉から高原道路に出たあたりから、車の後を付いて来るワンコに気づかれたそうです
高原道路は交通量も多い道、心配して車を止めると、間隔を保ちワンコも止る
試しに連れていたトイプードルのケイちゃんを見せ、「ワンコもいるよ」というと、トコトコとやってきて、開けたドアから乗り込んできたそうです
ご婦人二人で「こんなデカイ子を、よく保護しようと思われましたねー」の問いに
その時は、全く恐怖感が無かったそうですが
しかし、いざ車に乗ってきた姿を見ると、その大きさにかなり焦り、持っていたパンをちぎって与え続けたそうです

後日、獣医さんも心配して「飼ってくれる人を探しましょうか」と言ってくれたそうなのですが
なんだか、「不思議な出会い」を感じ、ぶんた家の一員となったようです
ついこの間まで愛犬「チャメ」との別れの悲しみに包まれていたご家族ですが、今は私を襲い続ける「文太」を、いとおしそうに見つめます
とても「温かな幸せ」と「不思議な出会い」を感じさせていただきました

そんなぶんたに襲われている時に、ふと思い出しました、「送り犬」

「送り犬」は「送り狼」ともいわれる「妖怪」の一種 (古来ヤマイヌとはニホンオオカミのことを指すようです)
日本各地に生息していたようです


夜中に山道を歩いていると、どこからとも無く犬が現れ、ぴたりと後について来ると言います
だだ、ぴたりと付いてくるだけなのですが、ひとたび通行人が転ぼうものなら襲い掛かってくるそうなので、夜の山道は注意深く歩かねばならないのです
それでも万が一転んだなら、そ知らぬ顔をして「どっこいしょ」「ちょっと一休み」、と言って座った「ふり」をするのです
そうすると、「送り犬」は何もせず、また森の獣などから通行人を守ってくれるのだそうです
そして、森を抜け家まで無事帰れたなら「ご苦労さん」と声をかけ、御礼に何か食べ物でも上げると、いつの間にかいなくなるのだそうです

八ヶ岳の棒道にも

こんな「送り犬」の話がいくつか残っているようです

そんなひとつ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ある日、中馬追い(馬で荷物を運ぶ仕事)の忠衛門はいつものように米をつけて、上諏訪からの帰途
立沢まで来ると秋の日はとっぷり暮れてしまった
花戸ヶ原(はなどがはら)にさしかかると、名物の送り犬につかれたそうな
賽の河原も淋しくすぎて、小荒間の人家近くなったから、安心して後ろを見たら、犬はいなかった
小荒間の村屋を出たら、また、山犬が近づいてきた
それで谷戸村大芦の入り口、鳩川の橋のたもとで
「ご苦労よう」
と言ったら,犬は姿を隠した、そうな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてもうひとつ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やはり、中馬追いの中島幸左衛門が、花戸ヶ原の中程までやって来ると
1匹のおくり犬が、道の真ん中までのそのそと出て来て、懇願するように幾度か頭を下げる風情をして大きく口を開いたそうな
度胸のよい幸左衛門が犬の口の中をのぞいてみると、さな骨が口の奥にささっていたので、手を入れてそれを取ってやった
するとその犬は非常に喜んで、尾を振り、頭を下げて、森深く立ち去った そうな

幾日かの後
幸左衛門がまた花戸ヶ原にさしかかると、前に助けてやった犬が出てきて、彼の袂(たもと)の端をくわえて引っぱりますので
犬のなすままに、道の小脇のヤブのかげまで行ったそうな
しばらくすると、闇の中にざわざわと物音が聞こえた
気味悪く思って耳をそばだてヤブのかげから透かして見ると、それは、オオカミの大群が過ぎて行くのであったそうな
この大群に出会ったら、それこそ命は危ない
幸左衛門は、 「畜生でも、恩は覚えていたか」と、ひとり言を言った と

オオカミの大群が行き過ぎると、その犬はくわえていた袂の端を離した、そうな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この「送り犬」または「送り狼」のお話は日本各地に残っているようですが
どのお話にも、共通した性格が見て取れます

・どこからとも無く「山犬」もしくは「狼」が現れピタリと後に付いてくる

・ただついてくるだけで、何にもしない

・しかし、通行人が倒れたらすかさず襲う

・たとえ倒れても「どっこいしょ」と言って休んだふりをすると襲われない

・火を焚くといなくなる

・無事家まで送ってくれたなら「ご苦労さん」と声をかけ、御礼に何か食べ物でもあげる

そして

・喉に刺さった骨をとってやると、恩返しに身を守ってくれる

などなど全国的に共通したお話となっています

ニホンオオカミは人の行動を監視するために後をつける習性があったとも聞きます
そして、不思議なことにこれらのお話にはまるで恐怖感がありません、それどころか、何か温かさが伝わってくるような気さえするのです
農耕民族である日本人は昔から「山犬」や「狼」に対し畏敬の念を持ち、決して敵対関係には無かったようです
自然から人々は多くの恩恵を受けています、そして人もその自然の一部
森で行き倒れれば、その肉体は当然元の自然に返るのです、「山犬」や「狼」は自然そのものなのでしょう
当時の人々と自然(森)との濃密な関係を窺い知るようなお話ですね
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                        立沢大橋と八ヶ岳

それにしても「花戸ヶ原」とはどのあたりでしょうか
諏訪から棒道で立沢通を過ぎ小荒間の間、そういえば少し上の方ですが「鼻戸屋」という場所が在ります、その下辺りでしょうか

もしそうだとすると、ノエルの森のすぐ近く

これから森を散歩する時には

決して転ばぬように、じゅうぶん気をつけなければなりません

そして

「どっこいしょ」を、口癖に

by takibiyarou | 2008-02-25 05:36 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 01月 22日

悲 し い き 鬼 の 物 語

今年の初詣は諏訪大社 に詣でました
荘厳な神社に詣でるとなぜか思考は古代へと誘われます
この諏訪大社は出雲から追われたオオクニヌシの子タケミナカタを祭る神社だといわれます
しかし、追われた神にしてはその影響力の巨大さはどうしたものでしょうか
どうもこの神話にも裏がありそうです

そんな連想は出雲へと飛び、そして我が故郷「吉備の国」へと向かいます

「吉備の国」は現在の岡山、あの桃太郎伝説のある地方です
桃太郎は「吉備津彦命」、そして退治された鬼の名を「温羅(ウラ)」という
確か、そんなふうに教わりましたでしょうか
現在まで「吉備津神社」には「鳴釜神事」なる奇妙な神事が伝承され
そして歴史書に一切記されていない古代朝鮮築城様式による「鬼ノ城」(キノジョウ)は、謎のベールに包まれたままです

この桃太郎伝説の大方の見方は、鬼は悪者で桃太郎は正義の味方
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果たして本当にそうなのでしょうか

幾多の御伽噺や伝説がそうであるように、歴史は常に勝者・為政者によって創られてきました
表の歴史・伝説です、それに対し必ず裏の歴史・伝説もあるはずです

永い年月に埋められ封じ込められた、隠された物語が

どうやら、この桃太郎伝説にも悲しい裏の伝説があるようです


それはいつの頃のことでしょうか、朝鮮半島から大きな船が「吉備の国」を目指してやってきました
乗っているのは「百済の王子」、しかし人々を驚かせたのはそれだけでは有りません、それは彼の風貌
「両眼は爛々として虎狼のごとく、茫々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、身の丈一丈四尺にも及ぶ」
と「吉備津神社縁起」にも有りますので、もしかすると見上げるような長身の金髪・碧眼の西欧系だったのかも知れません
長旅でその髭は伸び、頬はこけ、目は爛々と光っています
半島での戦いに破れ、当時交流関係にあった「吉備の国」に逃げ延びてきたのです
そしてこの船には造船をはじめ製鉄などさまざまな百済の優れた技術者も乗せていたようです
吉備の国はこの百済の一行を温かく迎えます
そして半島からの追っ手に備え、朝鮮式の古代山城にならって標高400mの山頂に城を築きます
この城はそれまでの城とは違い、周囲に城壁を巡らせ、そばの岩屋山には楯を構えたものです
百済人はこれを「ウル」と呼び、人々はその王子を敬い「温羅(ウラ)」と呼ぶようになります
この渡来人のもたらした最新の技術により、吉備の国はたいそう栄えたそうです
吉備高原や中国山地で採れた砂鉄はこの地に集められ、蹈鞴(タタラ)製鉄が行われるようになったのです
このことが後の「備前の名刀」の礎となったとも言われています
こうして城のふもとに広がる阿曽郷(あそのごう)は鋳物師(いもし)の地となったのです
そして「温羅」は阿曽郷の神職の娘・「阿曽媛(あそひめ)」を妻にめとり、吉備の国の首領となり「吉備冠者(きびのかじゃ)」、とも呼ばれました

しかし、この地方豪族の繁栄は全国統一をもくろむ大和朝廷にとって決して喜ばしいことではありません
大和朝廷はその勢力拡大のために各地に将軍を派遣する事となります
そしてこの地に派遣されたのが「五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、後の吉備津彦命(きびつひこのみこと)」なのです

ここに 戦の火蓋は切って落とされます

武勇に優れた「命(五十狭芹彦命)」は次々と矢を射ますが、ことごとく豪腕の「温羅」の投じる岩に打ち落とされてしまいます
勝負は五分と五分
このとき「命」は「温羅」のあまりの強さに「鬼神」を見たのです
そして「命」 は秘策をもってこの「鬼神」に対します
それは一度に二本の矢を射るのです、一本はやはり岩に打ち落とされますが、残る一本が「温羅」の左目を射抜きます
その鮮血は川(血吸川)を染め、浜〔赤浜)までを真っ赤に染めたそうです
雉に姿を変えて山中に隠れた「温羅」を「命」は鷹となって追います
そこで「温羅」は鯉に化けて血吸川に逃れます
勇猛なる「温羅」がここまで逃げ惑うのには訳があったのでしょう、一身に敵を引きつけ、妻や近しい人々を救おうとしのでは無いでしょうか
しかし、鵜となった「命」に囚われその首をはねられるのです

人々は嘆き悲しみます、その嘆きに応えるように「温羅の首」はうなり続けたそうです
これに驚異を感じた「命」は「温羅の首」を犬に食わせ、御釜殿のかまどの下に埋めるのです、それでも十三年の間「温羅の首」はうなり続けます

しかし当時の人々は、新しい支配者に媚び従うしか生きるすべは有りませんでした

そして「五十狭芹彦命」は吉備冠者(きびのかじゃ)「吉備津彦命」となり「温羅」は「鬼」となったのです


ある夜「命」の夢枕に「温羅」が立ち告げます

『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌(みひ)を炊がめよ、若し世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸あれば裕かに鳴り、
禍あれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』 と

「命」がお告げ通りにしたところ「温羅」のうなりは治まり

ここに釜の鳴り具合でその年の吉凶を占う釜占いが始まりました
現在でも「吉備津神社」では「鳴釜神事」が執り行われているようです

後に「温羅」は「吉備津神社本殿」の鬼門〔丑寅)にあたる「艮御崎宮(うしとらおんさきぐう)」に祀られました
(このときから丑寅に祭られた鬼は、牛の角を有し、虎皮のパンツをはいているのでしょうか)
現在も各地に残る「艮御崎宮」の存在は、いかに人々が「温羅」に対し畏敬の念をもち続けたかの証にも思えます
そして、もう一つ
この壮大なる「吉備津神社」とほんの1Kmほど離れた場所に「吉備津神社」があります、どちらも祭神は「吉備津命(キビツヒコノミコト)」

なぜ

なぜ、こんなに近い場所に同じ人物を祭らねばならないのでしょうか

「吉備津神社」は単純に吉備津命をお祭りしていますが、他方「吉備津神社」は祭神は勿論のこと、討たれた鬼おもお祭りしているのです、そして「鳴釜神事」までも


もしかすると、人々の 本当にお祭りしたかったのは

「鬼」とされた「温羅」の方だったのかもしれません

なぜだか、そんな気がしてなりません




もう一つの桃太郎伝説



悲しいき鬼の物語






参考にさせていただいたサイト

「鬼に出会う。吉備路」
「古代国家吉備の謎に迫る」
「吉備津神社縁起」
「古代吉備王国の旅」
「鬼ノ城」
「鬼ノ城の復元」
「吉備津神社」
「鳴釜神事」

by takibiyarou | 2008-01-22 06:11 | 物語 | Trackback | Comments(0)