木洩れ日の森から

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2014年 06月 11日

仮説は仮説のままなのか・・・


降り続いた激しい雨に代わり

春ゼミ時雨に包まれる森のデッキで

遥か昔に想いを馳せております


ノエルの森のすぐ近くに

忘れ去られた謎の村「稗之底村」はありました

この悲しげな名を持つ村は

多くの謎を残し忽然と消えてしまいます

そんな村の謎を解き明かそうとかねてより、空想と稚拙なる推理を重ねてまいりました

そして一つの仮説にたどり着きました

この仮設に立つならば、多くの村に関する謎が解かれます

しかしながら、この仮設を裏付ける根拠となる史料がありません

いや、あるはずなのですが

私にはそれを探し出す事が出来ないのです

今はまだ、単なる空想の産物としての

仮設のままなのです

     詳しくは 「稗 之 底 村 の 謎



そんな時

ある記事に遭遇いたしました

京都市左京区上高野に崇道神社(すどうじんじゃ)はあります
社伝によれば、785年(延暦4年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が
暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため創建されたという神社なのです
そして、その参道に「五味藤九郎の碑」なるものがあるそうです
この「五味藤九郎の碑」に関する記事を読み進めていくと

驚きの記述に出会います

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五味藤九郎の碑




五味藤九郎の碑は、京都代官として現在の高野村の辺りに高野隋道を構築し
農業用水を開いた事績を顕彰するものだそうです


この碑の由緒書きには

五味藤九郎之碑
昼なほ暗き幽玄の森
崇道神社境内に現存する藤九郎碑は
西暦1676年、和暦延宝5年に現在の上高野東山町山麓の巨岩を貫通、
高野川の清流を当時の高野村川南台地へ通じる水路を開設し
当地の農業の発展と住民の生活に多大の恩恵を遺す
偉大な個人の碑である
台下真黒の刻石に
禁裏御料  山城国愛宕郡高野村用水洫
       五味藤九郎御代官之時洞中三十五間切通
       延宝五丁己春二月 
と銘刻

とある


そして記事には

五味藤九郎は1671年~1680年まで二代目京都代官で、その出自は武田信玄に仕える一族で土木事業などに能力を持つ技術集団で有った 、と

また別のサイトの「五味藤九郎の碑」の記事によると

これなのです、私の探していたものは、ついに見つけたぞ!!

しかしこれらの記事が、いかなる史料に基づいたものなのかには触れられていません


もし、この記事が事実であるならば

以前から抱いておりました私の一つの仮説が

より確かなものへと近づくのではないか

そんな想いを強くいたしました


ではなぜにそうなのか・・・

それは
先に稗の底村の隣村である「乙事村」の奇妙な小字名の由来について「乙事のこと」の項で述べてみましたが
乙事(おっこと)はもともと乙骨(おつこつ)と呼ばれていた
その地の五味一族の名主「五味太郎左衛門」が功績によって甲州に知行を拝領し
後に家康に召し出されて姓を「乙骨」と改め、旗本に取り立てられ
後にこの地も乙骨、そして乙事と呼ばれるようになったと云うものでした

そう、ここで「五味一族」の名が登場いたしましす

そして伝承によれば乙事の植松姓、北原姓、五味姓(一部)は稗之底より移住したと・・・

と、なると

「稗之底村」の五味一族は武田信玄に仕える一族で

正に土木技術者集団であったと考えることが出来るのではないだろうか


これは凄い発見ではないか

我が仮説を実証できるのでは・・・

と、胸が高鳴ります

五味一族の出自のことは幾つかの五味藤九郎の碑のサイトで紹介されていますので
何らかの史料なり文献が残っているはず・・・
と、検索を続けますがなかなかたどり着けません
そこで、初代京都代官である五味藤九郎の父、五味金右衛門(ごみきんうえもん)を検索すると
かなりの数ヒットするのですが
どうもすべて大工の棟梁の五味金右衛門さん
別人のようです・・・

まる一日を費やし探索を続けましたが
五味藤九郎の先祖にはなかなか辿り着くことが出来ません
私の貧弱なる探索能力では、ここまでなのかもしれません
忸怩たる思いではありますが・・・


そんな訳で、今回は

「五味藤九郎の出自は武田信玄に仕える一族で土木技術者集団で有った」

とされることの史実を証明するべき史料の発見には至りませんでした

これを証明できない限り

やはり、仮説は仮説のままなのです


しかし、膨大なる武田文書の中に、五味家文書の中に

また、京都市政史の中に

きっとこの事実を証明する史料が眠っているはずです


きっと


何時の日にか

出会いたいものです





稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
[ 2014-06-11 05:25 ]
[ 2012-08-19 07:53 ]
稗 之 底 村 の 謎
[ 2008-01-18 04:59 ]
妖 し の 響 き・稗の底
[ 2007-10-29 06:32 ]
続・妖 し の 森
[ 2007-10-25 06:24 ]
妖  し  の  森  ・稗の底
[ 2007-09-30 07:03 ]
怪 し の 森 散 策
[ 2007-09-28 06:14 ]
稗 之 底 散 策
[ 2007-09-07 06:37 ]













by takibiyarou | 2014-06-11 05:25 | 妖しの森 | Trackback | Comments(8)
2012年 11月 30日

入内雀

父の残したコレクションの中に金泥色紙の大和絵があります

藤原實方とあり

百人一首風の大和絵に

有名な歌が添えられてあります

何方の筆になるかは判りませんが

これが実に達筆、優雅な筆使いに見惚れます

歌は

           「桜がり雨はふりきぬおなじくはぬるとも花のかげにやどらむ」
 
         
藤原實方は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある、当代きってのプレィボーイ


そんな實方の身にこの歌が発端となり、事件はおこります

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桜刈り、一条天皇は宮中の人々とお花見に出かけます
ところが突然の雨
人々は東屋に雨宿りいたしますが、藤原実(實)方はただ一人
桜の下に留まり、花陰でこの歌を詠みます

お花見なのに雨が降ってきたけれど
どうせ濡れるのならば花と共に濡れましょう
と、そんな意味なんでしょうか

この歌は宮中の人々の喝采を集めますが
ただ一人、若い藤原行成だけが

「技巧に過ぎて、真実味が無い」と批判します

この批判に短気な実方は怒り、行成の冠を奪い庭に打ち捨てしまいます

対し行成は、大人の振る舞い

何も言わず、供に拾いに行かせます
このいきさつをご覧になられた一条天皇は
實方の振る舞いを叱り
「枕詞にある陸奥の三松、その中でも阿古耶の松はまだその所在が解らない、 これを見て参れ」
と命じます

これは、陸奥への左遷です

そして一方の行成を蔵人頭(くろうどのとう)に取り立てます

しかし實方は松を探せば直に都に帰れると高をくくり、単身陸奥へ向います

どうも、實方がこんな大人気ない行動に出てしまったのには訳があったようです
誰しもが認める相愛の仲でありました清少納言に、若い藤原行成が急接近

清少納言も行成に歌を送ります

    「夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」

    まだ夜中だというのに鶏の声を真似して私を騙そうとしても、逢坂の関が決して人を通さないように
    私は貴方に騙されませんよ

ちょっとした三角関係の様相です


實方の奥州行きを知った清少納言は歌を贈ります

    「思ひだにかからぬ山のさせも草 誰か伊吹の里は告げしそ」  

    貴方が陸奥の息吹の里にまで行かなくてはならないとは驚くばかりです

この歌に、實方の返歌

    「かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしもしらじな燃ゆる思ひを」

    私の思いは”どうだこうだ”言い表しがたい燃えるようなものですよ
      (さしも草とはもぐさの原料となるヨモギのことらしい)

また、清少納言も歌を返します

    「とこもふち淵も瀬ならぬなみだ河 袖のわたりはあらじとぞ思ふ」

    貴方との別れが悲しすぎて袖が涙で濡れています

かくして実方は都から奥州古道を陸奥に向けて下ります


そして

長徳4年12月(999年1月)

任国で実方が馬に乗り笠島道祖神前を通った時
乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになってしまいます
没時の年齢は40歳ほどだったという
当時の陸奥は地区の孤島ともいうべき土地
実方はこの仕打ちへの怨みと京都への想いを募らせつつ
失意の内に陸奥で没したのでした

そして都では
都に実方の訃報が届くと同時に、奇妙な噂が流れ始めます
毎朝、京都の内裏の清涼殿へ1羽の雀が入り込み、台盤(食事を盛る台)の飯をついばんであっという間に平らげてしまうというのです
人々はこれを、京に帰りたい一心の実方の怨念が雀と化した、もしくは実方の霊が雀に憑いたといって内裏に侵入する雀であることから「入内雀」、または「実方雀」と呼びました

またこの雀は、農作物を食い荒らしたともいい

人々はこれを実方の怨霊の仕業として

大いに恐れたという


          ウィキメディアより








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by takibiyarou | 2012-11-30 08:10 | 物語 | Trackback | Comments(4)
2008年 09月 22日

く わ ば ら く わ ば ら

地 震 雷 な ん と や ら
親爺の権威喪失は言われて久しいですが
近頃、地震と雷がかなり多いような気がします
先日もお山でゴロゴロと鳴っておりました、山でこれに会うとかなり怖いですね
この雷、日本全国ほぼ同じ条件で、と思っておりましたが
昔、北陸で学生をやっていた時です
ころは冬、外は雪です
吹雪の様相、と、いきなりビカビカ、ドドドンー
雷です
一緒にいた友人に、「雪が降りながら雷だよ!不思議だねー」
と、同意を求めると
友人はいぶかしげに私を見て
「雷は昔から冬と決まっているやないか」と
雪雷(ゆきがみなり)と言うらしい
これには正直驚きました
私の生まれた地方では、雷がなると梅雨が明けます、夏の到来
どうもこの常識は全国的ではないようです、日本海側では雷は冬の風物詩

雷が鳴れば、蚊帳に逃げ込んだり、慌てておへそを隠したり
はたまた「くわばらくわばら」とお題目をとなえたり

この「桑原桑原」と菅原道真のお話は有名ですが、他にも説があるようです

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まずは菅原道真のお話から

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

宇多天皇に重用された菅原道真は、後に天皇が上皇となったころから勢力を伸してきた藤原時平に
宰府へ左遷されるのです
道真は太宰府で軟禁状態のまま失意の日々を送り、この世を去ります
やがて、都では異変が相次ぎます
藤原時平や道真の左遷に力した人々の死去、そして延長8年内裏に落雷、雷に打たれ死者が出ます
このことにおびえた醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいます
道真は雷神となり祟ったのです
しかし、道真の所領であった「桑原」には決して雷は落ちなかったそうです

そして諸説

昔昔、雷神が足を踏み外し、農家の井戸の中に落ちたとき
農民がフタをして閉じ込めたら
雷神が、「俺は桑の木が嫌いだから、桑原と唱えたら二度とお前の所には落ちないだから出してくれー」
と頼んだそうな
それから雷鳴がとどろくと桑原と唱えるようになった、とさ

もう一つ
三田市欣勝寺

昔、あわてものの雷の子が、欣勝寺の古井戸に落ちてしまった
どうしても外へ出られないので、「助けてくれ一!」と大声で叫んだ
和尚さんは、井戸にふたをしてこらしめた。
雷の子は、「助けておくれ。桑原へは二度と雷を落とさない。」と言ったので、和尚さんは助けてやった
雷の子は帰って親に、一部始終を話した。雷の親は、和尚さんにたいへん感謝し
雷たちを集めて、「これから欣勝寺や桑原には絶対に落としてはならないぞ。」ときつく戒めたという
それからというもの欣勝寺や桑原には雷が落ちたことがないという

この手の話はかなり全国的に伝えられているようですね

by takibiyarou | 2008-09-22 06:58 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 06日

猩 々 た ち の 森

08-9-6

昨夜遅く森に着き
散歩の後、また呑んでしまいました
夜中のゴウ介家で
泡盛をしこたま、

こんな酒好き、まさに「猩々」ですね

「猩々(しょうじょう)」は中国伝説の霊獣、妖怪?、人の言葉を話す猿に似た酒の守護神、無類の酒好き

むかし潯陽(しんにょう)の傍ら金山に夢のお告げに従い酒売りとなった孝行者がいたそうな
その店に毎日やってきては酒を呑むが、一向に顔色も変えぬ不思議な客に素性を訪ねれば
海中に住む猩々、と告げて立去るのです

酒売りが、樽に酒をいっぱいに詰め猩々の住むという潯陽の江に現れます
酒の神にたっぷりと呑んでもらおうと、重いお酒を背負って来たのです
やがて旨そうな酒の匂いに誘われて、猩々が現れます
童子のような姿に真っ赤な髪、無邪気さと神々しさとを併せ持つ霊獣
酒売りは酒を注ぎ、猩々それを呑み干します
酒売りの感謝の酌に酒が進み、さすがの猩々も少々ふらつきながらも舞(乱)を舞います

猩々は酌めども尽きぬ酒壺を酒売りに与え、去ります

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能、歌舞伎で有名な「猩々」、「寿猩々」です

能では舞台正先に大きな壺が出されます

「猩々壺」




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よも尽きじ よも尽きじ よも尽きじ

万代(よろずよ)までの

竹の葉の酒

掬(く)めども尽きず

飲めども変はらぬ

秋の夜のさかづき

影も傾く入江に枯れ立つ

足元はよろよろと

酔いに伏したる枕の夢の

覚むると思えば泉はそのまま

尽きせぬ宿こそ

めでたけれ


       謡曲「猩々」より



壺中天 もそうですが、壺とお酒にまつわる不思議なおはなし

こんな壺が欲しいですね

あるのは破壺だけですが

猩々たちの森、わが山荘


「 猩 壺 庵( しようこあん)」とでも

呼びますか












by takibiyarou | 2008-09-06 10:01 | お酒にまつわるお話 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 05日

竹 林 の 七 賢

今夜からお山です
そして明日の夜は友人のライブ
八ヶ岳に住まう打楽器奏者の長屋和哉氏の夕食とお酒付きの野外コンサートです
また旨いお酒が呑めそうです
お酒の話ばかりですね
そういえば、八ヶ岳の麓、白州に「七賢」 という銘酒あり

なかなかのお酒です
勿論「竹林の七賢」からの銘名でしょう

中国・魏(三国時代)の末期に、河内郡山陽の竹林で酒をくみかわし
清談を行なったと伝えられる七人の自由人たち
阮籍(げんせき)・ 阮咸(げんかん) ・嵆康(けいこう)・ 王戎(おうじゅう)・ 向秀(しょうしゅう)・ 山濤(さんとう)・ 劉伶(りゅうれい)
の七人らしい
実は、この七人、少し時代が違い酒を酌み交わすわけにはいかなかったようですが
それは置いておいて
世俗を離れ、酒を酌み交わすのは実にうらやましい限りです
森でお酒を呑む事は、それほど愚考ではなさそうです
少し安堵
そういえばこんな歌もありました

    古の七の賢しき人たちも欲りせし物は酒にしあるらし

                     大伴旅人 万葉集より

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やはり森で友人と酌み交わすお酒は最高ですね

あの李白

    両人対酌山花開
    一杯一杯腹一杯
    我酔欲眠卿旦去
    明朝有意抱琴来


花咲く森で酒を酌み交わす

一杯そしてまた一杯

酔ってしまってもう眠い、君ももう帰れ

そして明日、又来いよ

by takibiyarou | 2008-09-05 07:00 | お酒にまつわるお話 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 21日

ぬ な 河 の 底 な る 玉 の 物 語

今年の諏訪大社初詣のとき、ふとある古代のロマンスを思い出しました
この諏訪大社は出雲から追われたオオクニヌシの子タケミナカタを祭る神社とされています
タケミナカタ、「建御名方神」この名前には少しだけ記憶があるようです
昔昔、ある地方のある物語の映像化に携わった事がありました、その物語の主は「建御名方神」の父とされる「大国主(オオクニヌシ)」と母とされる「奴奈川姫( 沼河比売 ぬなかわひめ)」のお話でした

この「奴奈川姫」の名は「日本書紀」には登場しませんが「古事記」の「大国主の神話の段」に登場するそうです

昔、 高志の国(糸魚川地方)に賢く、美しい姫がおられたそうです
その頃出雲の国の「大国主命」は方々の国で妻を求めかねていました、そんな折、高志の国の姫の噂をお聞きになられ、求婚の為に
遠いこの地にまでお出ましになられました・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

八千矛の 神の命は、
八島国 妻纏(ま)きかねて

遠々し(遠い通り) 高志の国に
賢し女(さかしめ)を ありと聞かして、
麗し女(くはしめ)を ありと聞こして、
さ婚ひに あり立たし

婚ひに あり通はせ、
大刀が緒も いまだ解かずて、
襲(おすひ)をも いまだ解かね、
嬢子(をとめ)の 寝す(なす)や板戸を
押そぶらひ 吾が立たせれば、
引こづらひ 吾が立たせれば、
青山に ぬえは鳴きぬ。
さ野つ鳥 雉子(きじし)は響(とよ)む。
庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴く。
うれたくも 鳴くなる鳥か。
この鳥も うち止めこせね。
いしたふや 天馳使(あまはせづかひ)、
事の 語りごとも こをば

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   八千矛の 神の命は、
   方々の国で妻を求めかねて
   遠々し(遠い通り) 高志の国に
   賢し女(さかしめ)を ありと聞かして、
   麗し女(くはしめ)を ありと聞こして、
   求婚にお出ましになり
   求婚にお通いになり
   大刀の緒もまだ解かず
   羽織もまだ脱がずに
   娘さんの眠っておられる板戸を
   押しゆすぶり立っていらっしゃると
   引き試みて立っていらっしゃると
   青い山ではぬえが鳴いている
   野の鳥のきじは叫んでいる
   庭先でもにわとりも鳴いている
   腹が立つさまに鳴く鳥だなあ
   こんな鳥はたたいて鳴き止めさせてくれ
   下におります走り使いをする者の
   事の語り伝えはかようでございます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここにその奴奈川姫(ぬなかはひめ)、いまだ戸を開かずて内より歌よみしたまひしく、


八千矛の 神の命
ぬえくさの 女(め)にしあれば、
吾が心 浦渚(うらす)の鳥ぞ。
今こそは 吾(わ)鳥にあらめ。
後は 汝鳥(などり)にあらむを、
命は な死せたまひそ。
いしたふや 天馳使、
事の 語りごとも こをば。

青山に 日が隠らば、
ぬばたまの 夜は出でなむ。
朝日の 咲み(えみ)栄え来て、
たくづのの 白き 腕(ただむき)
沫雪の わかやる胸を
そ叩き 叩きまながり
真玉手 玉手差し纏(ま)き
股(もも)長に 寝(い)は宿(な)さむを。
あやに な恋ひきこし。
八千矛の 神の命。
事の 語りごとも こをば。


かれその夜は合わさずて、明日(くるつひ)の夜御合(みあひ)したまひき。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   みこと
   わたくしはしおれた草のような女のことですから
   わたくしの心は漂う水鳥
   今こそわたくし鳥でも
   後にはあなたの鳥になりましょう
   どうぞ殺さないでくださいませ
   下におります走り使いをする者の
   事の語り伝えはかようでございます

   青山に 日が隠らば

   真っ暗な夜になりましょう
   朝のお日様のようににこやかに来て
   楮(こうぞ)のような白い腕
   淡雪のような若々しい胸を
   そっと叩いて手をとりかわし
   玉のような手をまわして
   足を伸ばしておやすみなさいましょうもの
   そんなにわびしい思いをなさいますな
   八千矛の 神の命
   事の語り伝えはかようでございます


それで、その夜はお会いにならないで、翌晩お会いになりました

そして「大国主命」と「奴奈川姫」 は結ばれ「建御名方神」が生まれるのです

このお話は単に「大国主命」と「奴奈川姫」とのラブロマンスという意味合ではなく
出雲という文化圏と高志の国の文化圏との出会い、そして融合
言い換えれば当時祭祀の中心となっていた出雲と、祭祀にかかせない玉、翡翠(勾玉)の産地の支配者との関係を意味する記述だと推測されます
この物語をラブロマンスと書きました、勿論映像もその流れの制作となりました
しかし、この物語は本当にラブロマンスなのでしょうか
「奴奈川姫」にはいつも翡翠のイメージが重なります、「ヌナカワ」は「玉の川」の意味を持つとも言われます
おそらく姫川を指すのではないでしょうか
「玉」それは美しくそして少し悲しそうな翡翠です
高志の国(糸魚川)の「奴奈川姫」が身をお隠しになられたと伝えられる姫川の上流は古来、数少ない翡翠の産地としても名高いところです
それに女性を口説くには 「大国主命」の行動はチト乱暴では有りませんか
高志の国に到着したばかりなのに、まだ身だしなみを整えもせず
姫の眠っているその板戸を押したり引いたり、ゆすったり、挙句の果てに煩い鳥を叩けとは

ラブロマンスというよりは、まったく別の匂いがしてきてなりません
翡翠(玉)をめぐる侵略、征服の匂いが

出雲の神話の中に登場する「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)」は毎年「古志」からやって来て娘を食べてしまったといいます、その「ヤマタノオロチ」を「スサノオ」が退治するのです
おそらく出雲の国と高志の国の間に争いがあったのでしょう
そしてこの「ヤマタノオロチ」の尾から出てきたのが「都牟刈の太刀(偉大な力を持つ太刀)」であったともされています
この「太刀」はその後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう「倭建命(ヤマトタケルのみこと)」に渡され、野火攻めから脱出する為に草を薙いだ事から「草薙剣」の名前の由来とされているが、クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」の説が有力なのだそうです

しかしこれらの神話もあくまで高天原系の天孫族を主役とする神話編者の創作にすぎないとする説も多くあると聞きます
これらの説によると

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本来、諏訪神は信濃国の諏訪地方に発生した有力な地方神だったであろう

おそらく大和政権が東方へと勢力を伸ばす過程で、当初はまつろわぬ神として立ちふさがったのだろう

反抗的な人々が信ずる神だといっても、有力神だけに抹殺するわけにもいかない

そこでマイナーなイメージで神話のなかに組み込んだということが考えられる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまり難しい事柄は私にはわかりかねますが

ここにもまた別の、隠された歴史、伝説があるようですね

今もなお姫川の河底には、美しい翡翠が眠むると言います

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ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 

拾いて得し玉かも
  
あたらしき君が老ゆらく 惜しも      『万葉集十三巻』より







参考にさせていただいたサイト
「フォッサマグナミュージアム」
「奴奈川姫」
「奴奈川姫伝説」
「タケミナカタ」

by takibiyarou | 2008-04-21 05:54 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 03月 03日

風 の 三 郎

先日、「春一番」が吹き荒れました
春の訪れなのでしょうか
しかしお山もまだまだ氷点下、とは言っても、温か肌着を着けていればそれほど寒さを感じることなくお散歩できます
しかし、風があるとそうは行きません
体感温度が大違い、特に素手には容赦ありません、八ヶ岳から吹き降ろす風の冷たさはまた格別です
そんな風は農業にとっても大変な困り者
昔から「やんちゃ坊主の三男坊」として「風の三郎」と呼ばれ、各地で信仰とも結びついてきたようです
新潟県や伊豆諸島にも風の神「風の三郎様」として伝えられ、富山の「越中おわら風の盆」もまた風鎮の祭りと聞きます
石川県鹿西町の鎌宮諏訪神社では長さ1尺余の鎌2挺(ちょう)に、新稲穂と白木綿を供えた後に鎌を神木に打ちつけ
鎌舞と呼ばれる風鎮と豊作・豊漁を祈る神事が行われるそうです
それはこの地方でも同じです、昔から八ケ岳颪(おろし)を和らげるために「風切り」と呼ばれる防風林を植え大切に育ててきました
その八ヶ岳に「風の三郎岳」と呼ばれる峰もあったそうです、「権現岳 」がそうだとする説が有力ですが定かではありません
そしてその山麓には「風の三郎社」が現存しています

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この 「風の三郎社」について在郷の研究者「北村宏氏」はかなり詳細な調査研究をされておられます
そんな八ヶ岳の「風の三郎」を調べていくうちに面白い説にぶつかりました

「風の三郎 」と言えば誰でも思い起こすのが、宮沢賢治の「風の又三郎」でしょう
なんと、この「風の又三郎」は八ヶ岳の「風の三郎岳」「風の三郎社」からの発想ではないかとの説なのです
根拠として、「風の又三郎」の下敷きとなる前作の、「風野又三郎」の一節を上げておられます

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。くるくるまわって走れぁいいからね。そうすれば木の葉や何かマントにからまって、丁度うまい工合かまいたちになるんだ。ところが大きなサイクルホールはとても一人じゃ出来あしない。小さいのなら十人ぐらい。大きなやつなら大人もはいって千人だってあるんだよ。やる時は大抵ふたいろあるよ。日がかんかんどこか一とこに照る時か、また僕たちが上と下と反対にかける時ぶっつかってしまうことがあるんだ。そんな時とまあふたいろにきまっているねえ。あんまり大きなやつは、僕よく知らないんだ。南の方の海から起って、だんだんこっちにやってくる時、一寸僕等がはいるだけなんだ。ふうと馳けて行って十ぺんばかりまわったと思うと、もうずっと上の方へのぼって行って、みんなゆっくり歩きながら笑っているんだ。そんな大きなやつへうまくはいると、九州からこっちの方まで一ぺんに来ることも出来るんだ。けれどもまあ、大抵は途中で高いとこへ行っちまうね。だから大きなのはあんまり面白かあないんだ。十人ぐらいでやる時は一番愉快だよ。甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ッ岳の麓の野原でやすんでたろう。曇った日でねえ、すると向うの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろうが上っていたんだ。それでも僕はまあやすんでいた。そして夕方になったんだ。するとあちこちから
『おいサイクルホールをやろうじゃないか。どうもやらなけぁ、いけない様だよ。』ってみんなの云うのが聞こえたんだ。
『やろう』僕はたち上って叫んだねえ、
『やろう』『やろう』声があっちこっちから聞えたね。
『いいかい、じゃ行くよ。』僕はその平地をめがけてピーッと飛んで行った。するといつでもそうなんだが、まっすぐに平地に行かさらないんだ。急げば急ぐほど右へまがるよ、尤もそれでサイクルホールになるんだよ。さあ、みんながつづいたらしいんだ。僕はもうまるで汽車よりも早くなっていた。下に富士川の白い帯を見てかけて行った。けれども間もなく、僕はずっと高いところにのぼって、しずかに歩いていたねえ。サイクルホールはだんだん向うへ移って行って、だんだんみんなもはいって行って、ずいぶん大きな音をたてながら、東京の方へ行ったんだ。きっと東京でもいろいろ面白いことをやったねえ。それから海へ行ったろう。海へ行ってこんどは竜巻をやったにちがいないんだ。竜巻はねえ、ずいぶん凄いよ。

  「風野又三郎」より   9月4日の項
                (「サイクルホール」は賢治の造語で「つむじ風」のことのようです)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんでも、賢治の生涯の親友「保坂嘉内」は八ヶ岳を望む韮崎の出身で、賢治は彼から「風の三郎岳」「風の三郎社」の話を聞き、「風野又三郎」を書き、そして「風の又三郎」に仕上げたのではないかというのです
また1910年、ハレ-彗星が地球に大接近して世の中を騒然とさせますが、このとき「保坂嘉内」は韮崎の自宅から南アルプスの上にかかるハレ-彗星をスケッチしているそうです
そしてそのスケッチに「銀漢(銀河)ヲ 行ク彗星ハ 夜行列車ノ様ニニテ 遥カニ虚空ニ消エニケリ」と書き記しているのだそうです
この体験を後に賢治が知り 「銀河鉄道の夜」となったのかもしれません

又、「北村宏氏」は「なめとこ山の熊」の熊取り名人「淵沢小十郎」の名前に「小淵沢」
「風野又三郎」「風の又三郎」に登場の地元の子供「嘉助」に親友「保坂嘉内」の一文字が当てられていることを上げ
宮沢賢治が八ヶ岳山麓に並々ならぬ興味を抱いていたと推察されてもおられます

多くの文学との縁深いこの高原に

もう一つの縁を見つける試みは、とても楽しいことですね










by takibiyarou | 2008-03-03 05:13 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 02月 25日

送 り 犬 (おくりいぬ)

先日、散歩の途中ノエルに曳かれてぶんた家にお邪魔いたしました
お宅に上がり座るまもなく、ぶんたが私に襲い掛かります
勢いに押され転がった私に馬乗りになり、私の顔を舐めまわします、そんな大歓迎を受けながら、風呂上りのビールをご馳走になりました
ぶんたは生まれ、素性の判らぬノエルより二周りも大きな、数ヶ月前にぶんた家に保護された幸運のワンコです
ビールをご馳走になりながら、ぶんたとの出会いの様子おうかがいいたしました
大泉から高原道路に出たあたりから、車の後を付いて来るワンコに気づかれたそうです
高原道路は交通量も多い道、心配して車を止めると、間隔を保ちワンコも止る
試しに連れていたトイプードルのケイちゃんを見せ、「ワンコもいるよ」というと、トコトコとやってきて、開けたドアから乗り込んできたそうです
ご婦人二人で「こんなデカイ子を、よく保護しようと思われましたねー」の問いに
その時は、全く恐怖感が無かったそうですが
しかし、いざ車に乗ってきた姿を見ると、その大きさにかなり焦り、持っていたパンをちぎって与え続けたそうです

後日、獣医さんも心配して「飼ってくれる人を探しましょうか」と言ってくれたそうなのですが
なんだか、「不思議な出会い」を感じ、ぶんた家の一員となったようです
ついこの間まで愛犬「チャメ」との別れの悲しみに包まれていたご家族ですが、今は私を襲い続ける「文太」を、いとおしそうに見つめます
とても「温かな幸せ」と「不思議な出会い」を感じさせていただきました

そんなぶんたに襲われている時に、ふと思い出しました、「送り犬」

「送り犬」は「送り狼」ともいわれる「妖怪」の一種 (古来ヤマイヌとはニホンオオカミのことを指すようです)
日本各地に生息していたようです


夜中に山道を歩いていると、どこからとも無く犬が現れ、ぴたりと後について来ると言います
だだ、ぴたりと付いてくるだけなのですが、ひとたび通行人が転ぼうものなら襲い掛かってくるそうなので、夜の山道は注意深く歩かねばならないのです
それでも万が一転んだなら、そ知らぬ顔をして「どっこいしょ」「ちょっと一休み」、と言って座った「ふり」をするのです
そうすると、「送り犬」は何もせず、また森の獣などから通行人を守ってくれるのだそうです
そして、森を抜け家まで無事帰れたなら「ご苦労さん」と声をかけ、御礼に何か食べ物でも上げると、いつの間にかいなくなるのだそうです

八ヶ岳の棒道にも

こんな「送り犬」の話がいくつか残っているようです

そんなひとつ

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ある日、中馬追い(馬で荷物を運ぶ仕事)の忠衛門はいつものように米をつけて、上諏訪からの帰途
立沢まで来ると秋の日はとっぷり暮れてしまった
花戸ヶ原(はなどがはら)にさしかかると、名物の送り犬につかれたそうな
賽の河原も淋しくすぎて、小荒間の人家近くなったから、安心して後ろを見たら、犬はいなかった
小荒間の村屋を出たら、また、山犬が近づいてきた
それで谷戸村大芦の入り口、鳩川の橋のたもとで
「ご苦労よう」
と言ったら,犬は姿を隠した、そうな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてもうひとつ

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やはり、中馬追いの中島幸左衛門が、花戸ヶ原の中程までやって来ると
1匹のおくり犬が、道の真ん中までのそのそと出て来て、懇願するように幾度か頭を下げる風情をして大きく口を開いたそうな
度胸のよい幸左衛門が犬の口の中をのぞいてみると、さな骨が口の奥にささっていたので、手を入れてそれを取ってやった
するとその犬は非常に喜んで、尾を振り、頭を下げて、森深く立ち去った そうな

幾日かの後
幸左衛門がまた花戸ヶ原にさしかかると、前に助けてやった犬が出てきて、彼の袂(たもと)の端をくわえて引っぱりますので
犬のなすままに、道の小脇のヤブのかげまで行ったそうな
しばらくすると、闇の中にざわざわと物音が聞こえた
気味悪く思って耳をそばだてヤブのかげから透かして見ると、それは、オオカミの大群が過ぎて行くのであったそうな
この大群に出会ったら、それこそ命は危ない
幸左衛門は、 「畜生でも、恩は覚えていたか」と、ひとり言を言った と

オオカミの大群が行き過ぎると、その犬はくわえていた袂の端を離した、そうな。

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この「送り犬」または「送り狼」のお話は日本各地に残っているようですが
どのお話にも、共通した性格が見て取れます

・どこからとも無く「山犬」もしくは「狼」が現れピタリと後に付いてくる

・ただついてくるだけで、何にもしない

・しかし、通行人が倒れたらすかさず襲う

・たとえ倒れても「どっこいしょ」と言って休んだふりをすると襲われない

・火を焚くといなくなる

・無事家まで送ってくれたなら「ご苦労さん」と声をかけ、御礼に何か食べ物でもあげる

そして

・喉に刺さった骨をとってやると、恩返しに身を守ってくれる

などなど全国的に共通したお話となっています

ニホンオオカミは人の行動を監視するために後をつける習性があったとも聞きます
そして、不思議なことにこれらのお話にはまるで恐怖感がありません、それどころか、何か温かさが伝わってくるような気さえするのです
農耕民族である日本人は昔から「山犬」や「狼」に対し畏敬の念を持ち、決して敵対関係には無かったようです
自然から人々は多くの恩恵を受けています、そして人もその自然の一部
森で行き倒れれば、その肉体は当然元の自然に返るのです、「山犬」や「狼」は自然そのものなのでしょう
当時の人々と自然(森)との濃密な関係を窺い知るようなお話ですね
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                        立沢大橋と八ヶ岳

それにしても「花戸ヶ原」とはどのあたりでしょうか
諏訪から棒道で立沢通を過ぎ小荒間の間、そういえば少し上の方ですが「鼻戸屋」という場所が在ります、その下辺りでしょうか

もしそうだとすると、ノエルの森のすぐ近く

これから森を散歩する時には

決して転ばぬように、じゅうぶん気をつけなければなりません

そして

「どっこいしょ」を、口癖に

by takibiyarou | 2008-02-25 05:36 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 01月 22日

悲 し い き 鬼 の 物 語

今年の初詣は諏訪大社 に詣でました
荘厳な神社に詣でるとなぜか思考は古代へと誘われます
この諏訪大社は出雲から追われたオオクニヌシの子タケミナカタを祭る神社だといわれます
しかし、追われた神にしてはその影響力の巨大さはどうしたものでしょうか
どうもこの神話にも裏がありそうです

そんな連想は出雲へと飛び、そして我が故郷「吉備の国」へと向かいます

「吉備の国」は現在の岡山、あの桃太郎伝説のある地方です
桃太郎は「吉備津彦命」、そして退治された鬼の名を「温羅(ウラ)」という
確か、そんなふうに教わりましたでしょうか
現在まで「吉備津神社」には「鳴釜神事」なる奇妙な神事が伝承され
そして歴史書に一切記されていない古代朝鮮築城様式による「鬼ノ城」(キノジョウ)は、謎のベールに包まれたままです

この桃太郎伝説の大方の見方は、鬼は悪者で桃太郎は正義の味方
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果たして本当にそうなのでしょうか

幾多の御伽噺や伝説がそうであるように、歴史は常に勝者・為政者によって創られてきました
表の歴史・伝説です、それに対し必ず裏の歴史・伝説もあるはずです

永い年月に埋められ封じ込められた、隠された物語が

どうやら、この桃太郎伝説にも悲しい裏の伝説があるようです


それはいつの頃のことでしょうか、朝鮮半島から大きな船が「吉備の国」を目指してやってきました
乗っているのは「百済の王子」、しかし人々を驚かせたのはそれだけでは有りません、それは彼の風貌
「両眼は爛々として虎狼のごとく、茫々たる鬢髪は赤きこと燃えるがごとく、身の丈一丈四尺にも及ぶ」
と「吉備津神社縁起」にも有りますので、もしかすると見上げるような長身の金髪・碧眼の西欧系だったのかも知れません
長旅でその髭は伸び、頬はこけ、目は爛々と光っています
半島での戦いに破れ、当時交流関係にあった「吉備の国」に逃げ延びてきたのです
そしてこの船には造船をはじめ製鉄などさまざまな百済の優れた技術者も乗せていたようです
吉備の国はこの百済の一行を温かく迎えます
そして半島からの追っ手に備え、朝鮮式の古代山城にならって標高400mの山頂に城を築きます
この城はそれまでの城とは違い、周囲に城壁を巡らせ、そばの岩屋山には楯を構えたものです
百済人はこれを「ウル」と呼び、人々はその王子を敬い「温羅(ウラ)」と呼ぶようになります
この渡来人のもたらした最新の技術により、吉備の国はたいそう栄えたそうです
吉備高原や中国山地で採れた砂鉄はこの地に集められ、蹈鞴(タタラ)製鉄が行われるようになったのです
このことが後の「備前の名刀」の礎となったとも言われています
こうして城のふもとに広がる阿曽郷(あそのごう)は鋳物師(いもし)の地となったのです
そして「温羅」は阿曽郷の神職の娘・「阿曽媛(あそひめ)」を妻にめとり、吉備の国の首領となり「吉備冠者(きびのかじゃ)」、とも呼ばれました

しかし、この地方豪族の繁栄は全国統一をもくろむ大和朝廷にとって決して喜ばしいことではありません
大和朝廷はその勢力拡大のために各地に将軍を派遣する事となります
そしてこの地に派遣されたのが「五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、後の吉備津彦命(きびつひこのみこと)」なのです

ここに 戦の火蓋は切って落とされます

武勇に優れた「命(五十狭芹彦命)」は次々と矢を射ますが、ことごとく豪腕の「温羅」の投じる岩に打ち落とされてしまいます
勝負は五分と五分
このとき「命」は「温羅」のあまりの強さに「鬼神」を見たのです
そして「命」 は秘策をもってこの「鬼神」に対します
それは一度に二本の矢を射るのです、一本はやはり岩に打ち落とされますが、残る一本が「温羅」の左目を射抜きます
その鮮血は川(血吸川)を染め、浜〔赤浜)までを真っ赤に染めたそうです
雉に姿を変えて山中に隠れた「温羅」を「命」は鷹となって追います
そこで「温羅」は鯉に化けて血吸川に逃れます
勇猛なる「温羅」がここまで逃げ惑うのには訳があったのでしょう、一身に敵を引きつけ、妻や近しい人々を救おうとしのでは無いでしょうか
しかし、鵜となった「命」に囚われその首をはねられるのです

人々は嘆き悲しみます、その嘆きに応えるように「温羅の首」はうなり続けたそうです
これに驚異を感じた「命」は「温羅の首」を犬に食わせ、御釜殿のかまどの下に埋めるのです、それでも十三年の間「温羅の首」はうなり続けます

しかし当時の人々は、新しい支配者に媚び従うしか生きるすべは有りませんでした

そして「五十狭芹彦命」は吉備冠者(きびのかじゃ)「吉備津彦命」となり「温羅」は「鬼」となったのです


ある夜「命」の夢枕に「温羅」が立ち告げます

『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして命の釜殿の神饌(みひ)を炊がめよ、若し世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸あれば裕かに鳴り、
禍あれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』 と

「命」がお告げ通りにしたところ「温羅」のうなりは治まり

ここに釜の鳴り具合でその年の吉凶を占う釜占いが始まりました
現在でも「吉備津神社」では「鳴釜神事」が執り行われているようです

後に「温羅」は「吉備津神社本殿」の鬼門〔丑寅)にあたる「艮御崎宮(うしとらおんさきぐう)」に祀られました
(このときから丑寅に祭られた鬼は、牛の角を有し、虎皮のパンツをはいているのでしょうか)
現在も各地に残る「艮御崎宮」の存在は、いかに人々が「温羅」に対し畏敬の念をもち続けたかの証にも思えます
そして、もう一つ
この壮大なる「吉備津神社」とほんの1Kmほど離れた場所に「吉備津神社」があります、どちらも祭神は「吉備津命(キビツヒコノミコト)」

なぜ

なぜ、こんなに近い場所に同じ人物を祭らねばならないのでしょうか

「吉備津神社」は単純に吉備津命をお祭りしていますが、他方「吉備津神社」は祭神は勿論のこと、討たれた鬼おもお祭りしているのです、そして「鳴釜神事」までも


もしかすると、人々の 本当にお祭りしたかったのは

「鬼」とされた「温羅」の方だったのかもしれません

なぜだか、そんな気がしてなりません




もう一つの桃太郎伝説



悲しいき鬼の物語






参考にさせていただいたサイト

「鬼に出会う。吉備路」
「古代国家吉備の謎に迫る」
「吉備津神社縁起」
「古代吉備王国の旅」
「鬼ノ城」
「鬼ノ城の復元」
「吉備津神社」
「鳴釜神事」

by takibiyarou | 2008-01-22 06:11 | 物語 | Trackback | Comments(0)
2008年 01月 18日

稗 之 底 村 の 謎

以前「妖しの森」項で謎の村「稗之底村」のことを少し書きました
そして村の址を散策し何度か奇妙な体験もいたしました
そんな「稗之底村」のことがどうしても頭から離れません



森の小路を歩くのは私のようです

鬱蒼の唐松の森のなかを

おそらく、鉢巻道路のすぐ下の棒道を原村方向に歩いているようです

かすかに覚えのある風景が続きます

と、突然、鬱蒼の森の中に空ろのある大木が現れます

その大木の根元には、苔むした石の祠

これは

「稗之底村」西出口湧水地の光景に違いありません

そう、謡いの聞こえてきた、あの場所です・・・


奇妙な思いで目を覚ましましますが

「稗之底村」のイメージがしばらく付き纏い、眠ることが出来そうにありません

曳かれるようにPCに向かいます




「稗之底村」 あまりの気候の厳しさに、廃村し移住せざるを得なかった悲しい村
しかしこの「稗之底村」には幾つかの謎があると聞いています

はたしてその謎とは

富士見町の公式サイトを見てみますと

・・・・・・・・・・・・・・・・・
稗之底古村址は保健休養地別荘下、信玄の棒道から2km程下った標高1400mの八ヶ岳雪解け水が湧き出る所にある。
稗之底村は境方十八ヶ村に数えられる古村で村人は1763年頃にこの地を放棄し立沢村、乙事村に移住した。
当時はわずかな田畑の耕作と周辺の森林の伐採で生計をたてていたが、高冷地での厳しい寒さで引越しを余儀なくされたと伝えられるが
なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか?
八ヶ岳山麓の高台に建てられた大先神社の意味?
村人の多くが山梨県(甲斐の国)に多い「植松」姓?
信玄の棒道の奥地?
など・・文献には残っていない謎の部分が多く、ミステリースポットである。
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これをもう少し紐解いてみましょう

謎-1文献が極めて少ない、なぜか
   「稗之底村」(ひえのそこむら)は、境方十八ヶ村に数えられる古村でしたが、村に関する文献としては
   「諏訪郡諸村並(ならびに)旧蹟年代記」(筆者不明幕末)に引用される天正十八年(1590)の「諏訪郡御検地御高帳」に
   高三十六石三升と記載され
   また宝歴十三年(1763)中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、乙事村の役人が差し出した文書に
   「右稗之底村ノ儀、八ヶ嶽下ニテ地所至ッテ寒ク、作毛生イ立チ兼ネ、其ニ上野山伐リ尽クシ渡世難儀仕リ、
   正保年中立沢新田へ引越シ、其ノ後明歴年中以前ノ村方へ罷リ帰り家作仕リ候得共、前諸ノ通り渡世仕リ難ク候ニ付キ、
   乙事村へ引越シ住居仕リ中馬稼ギ等仕リ候」と記している。(富士見町教育委員会資料)
   天保十三年、中馬紛争に関する幕府普請方の産物改めが行われた際に、
   乙事村の役人が差し出した稗之底村の廃村に至った事情として、「地所至って寒く、作毛生立ちかね」、
   「野山伐り尽くし渡世難儀」など、
   気候が寒冷で作物の育たないこと、山野を伐り尽くしてしまい出稼ぎの渡世が成り立たない事を上げている

   文献による史料はこれだけなのだそうです

謎-2なぜ先人が生活条件の悪い土地に村をつくったのか
   この村のある富士見高原は標高1200mから1400mで、冬は当時-20℃にも達する極寒の地
   そんな高原も古くは、森に住む鹿や猪、鳥を狩りそして木の実の採集による縄文の文化が大きく花開いた地域でした
   そかし狩、採集には適していた高原ですが、その後の稲作には全く適さない気候風土です
   時代が弥生期に移るとこの高原から人の気配が消えてしまうのです
   「稗之底村」が出来るまでは
   そんな厳しい気候風土の場所になぜ村を作ったのでしょうか、なぜ

謎-3八ヶ岳山麓標高約1200mの高台になぜ大先神社が建てられたのか
   「稗之底村」跡には村の産土神の大先神社跡が残っています
   祭神は「宇迦之御魂(稲倉魂命)(うかのみたまのみこと)」で稲荷神社であったようです
   しかしたかだか三十六石三升の村に産土神の大先神社など、そぐわしくありません
   なぜ、こんな小さな貧村に大先神社を建てたのでしょうか、なぜ

謎-4村人の多くが甲斐の国に多い姓なのはなぜか
   伝承によれば植松姓、北原姓、五味姓(一部)は稗之底より移住したという
   諏訪に程近いこの村に甲斐の国に多いとされる「姓」が多いのは、なぜ

謎-5境方十八ヶ村に数えられる古村であるこの地を放棄し移住したのは、なぜか
   先に示した乙事村の役人が差し出した文書により、稗之底村を放棄した村人が立沢村・乙事村に移住したことは明らかなのです
   ちなみに、このとき移転したという明歴二年(1656)銘の六地蔵石幢が乙事に現存します

などなど、幾つかの謎が浮かび上がってくるようです

それではこの謎を解く「仮説」でもないかと検索しますが、なかなか見つけることが出来ません
そこで、無謀にも私なりに仮説を立ててみることにいたしましょう
しかし、これほど文献・史料がないことと、また有ったとしても、歴史の知識に疎い門外漢の私です
仮説と言うより、空想を基にしたかなり乱暴な推理でしかないのですが

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まず謎-4「甲斐の国に多い姓」このことは、信濃の国とされているこの地が、それはいつ頃からかという問題を考えなければななないでしょう
稗之底村のある立場川(境川)から国境にあたる甲六川に挟まれる地域は中世から「堺」と呼ばれ古来甲斐に属しておりましたが、天文九年(1540)に甲斐の武田信虎の娘禰々(ねね)が、諏訪の当主諏訪頼重のもとに嫁いだ時、化粧料とし堺の十八ヶ村が武田から諏訪に贈られそれから堺は信濃になったとの伝承が広く伝えられております(富士見町史より)
このことから「甲斐の国に多い姓」ことはそれほどの不思議はないのでは、しかしながら甲斐の国との密接な関係は容易に想像されます

そして謎-2「生活条件の悪い土地」を考えると明らかに自然発生的な村ではなく、そこにはなんらかの意図が隠されているように思われます
そして、謎-1「文献が極めて少ない」からは、なんだか秘密めいた匂いがしてきませんか
次に、「稗之底村」の位置関係をと地図を見てみると、なんとすぐ近くに「棒道」があるではありませんか、少し匂ってきましたよ
この「棒道」は「信玄の棒道」とも呼ばれた「甲斐」と「諏訪」とを結ぶ軍用道路です、そしてこの「棒道」を少し調べてゆくと

なんだか謎を解く「キーワード」になりそうな気配がしてきました

「棒道」は上・中・下の三本あったと伝えられています
1528(享禄元)年,富士見町を舞台に繰り広げられた「神戸(ごうど)・堺川(現在の立場川)の戦い」の際使われたのは「中の棒道」のようです

信玄が信濃攻略を開始したのは1542(天文11)年、そして次の北信濃の平定に際し、これまでの道よりもっと最短コースをとるために作らせたのがこの「上の棒道」のようです
最短コースの「上の棒道」は大泉村大芦から長坂町小荒間を経て、小淵沢町を抜け、八ヶ岳の西の麓から長野県(富士見町)に入り甲六川を渡り富士見町・原村を経て、茅野市湯川で大門街道に合する23kmの行程で信玄の目的地,北信濃つまり長野盆地に通づるといわれています
1552(天文21)年、信玄は「甲府から諏訪郡への道を作ることを命じ」、「川に橋をかけるために、どの山からでも木を切ってもよい」としているそうです

しかしこの「上の棒道」は、実際の戦いに使われた形跡はあまり無く、物資の輸送に使用されたとの見方が有力らしいのです
なんと「稗之底村」はこの「上の棒道」の最終地点近くに位置するのです、かなり「信玄之棒道」との係わり合いが深そうな気がしてきました

当時の土木工事、特に山中の工事にはかなりの特殊技術が必要なことは想像できます

そこにはやはり専門の技術者の存在があったはずです

(甲斐は「信玄堤」でも明らかなように、非常に優秀な土木技術を持ってたことは確実です)

このことから

「彼らはそんな技術者集団だったのでは」

との仮説が成り立たないでしょうか

そして信玄の密命を受け軍用道路である「上の棒道」の工事に着手するのです、当然軍用の性質上「極秘任務」となり、そこで謎-1文献は極端に少なくなるはずです
工事の進行によりベースキャンプとして村を開き、移動していったのではないでしょうか、この場合、村の立地条件は普通の村とはかなり異なったものとなるはずです
軍用道路の建設です、物資的、経済的バックアップは当然でしょう、そこに、謎-2「生活条件の良し悪し」 はあまり意味を持ちません、水さえ豊富にあれば
それにはこの地はうってつけです、たくさんの湧水からは懇々と豊富な水が湧いているのです、あとは現場に近いことが最大の条件となったはずです
そしてこの難事業達成に際し神仏の加護を求め、そしてまた少しでもこの地での収穫が上がるようにと穀物・農業の神である「宇迦之御魂」を産土神として祭ったのも当然うなずけるのではないでしょうか
謎-3「産土神である大先神社」はこの地だからこそなのではないでしょうか、当然建立に当たっては甲斐のバックアップもあったでしょう
そしてほど近くにある「大山祇社」は、元々小さな祠に祀ってあったものを信玄が棒道の往復をする際に、山路の平穏を祈って三島神社から分霊し合祀した祇社だそうです
やはり、この地にこそ地縁集団としての信仰意識に基づくとされる産土神「大先神社」は必要だったのです

ではなぜ、彼らは棒道開通の後までこの村にとどまったのでしょうか
現在このあたりは、唐松や赤松の生い茂る鬱蒼の森ですが、当時は三里ヶ原、広原の地名が示すように見渡す限りの大草原でした、その大草原にはおそらく「牧」(馬の牧場)が営まれていたのでしょう
そんな馬の通り道が棒道の原型となったのかも知れません
また棒道にはこれと直角に立場川(境川)をはじめ幾筋もの川が流れております
この川筋は、雨が降ると鉄砲水となり、大きな岩を押し流したといいます
当然、橋は流され、路肩は削られることとなります

やはり後の整備は欠かせないのです、崩れた路肩を直し、流された丸木橋をかけ直す
そんな「道守り」としての仕事に携わったのではないでしょうか

しかし

やがて時は流れ、道の軍事的な役目は消え

もはや伐るべき木も伐りつくします

そして時代が移り、物資的、経済的支援もなくなり

やがてその物資輸送の役割も甲州街道などに奪われます

もはやこの地での「存在理由」すら失われてしまいます

そして、歴史の記憶からさえも消されていったのです

しかし彼らに行く当てはありません、幾世代かをしのいできたこの地を離れることが出来ないのです
少しばかりの農地を開墾し、雑穀で飢えをしのぎながら森林の伐採で生計をたて縄文の狩や採集に立ち返っての生活だったのでしょうか
もう一つ、「稗之底村」という村名からは、かなり貧しい暮らしを連想されますが
稗は当時の主食穀物と考えられます、ましてや標高1200mの寒冷高地、当時稲作など到底考えられません
当然、粟や稗が主食となります

しかし、謎-5村開設から約100年をこの地で暮らした人々も、ついに村を去るのです

このとき何があったのでしょう
飢饉でしょうか、疫病のためでしょうか、それは定かではありません
稗の甕の底を見るような、あまりにも貧しい暮らしさえ成り立たなくなったのです
精も根も尽き果てたのかも知れません
六地蔵石幢の銘を信ずるならば、明歴二年(1656)
人々は少し標高の低い「乙事(乙骨)」「立沢」に別れ、暮らしを立てたと伝えられています

このように「稗之底村」を「信玄の棒道」のための「技術者集団」との仮説にたてば

数々の謎は自ずから解けていくではありませんか

しかし、ここまでの空想からの仮説は

もし「稗之底村」の研究者がおられるならば、既にたどり着かれていることでしょう

しかし、この仮説を立証すべき文献も史料もありません

新しい文献が発見されるまで



門外漢の戯言



空想「稗之底村」の謎物語とでもしておきましょうか



                「稗の底村」のお話   富士見町探検隊よりお借りいたしました






追記
検索している内に「宮崎駿監督」の立てられた「稗の底村に関する仮説」に行き当たりましたので、ご紹介させていただきます
詳しくは
井戸尻考古館の編纂になる2002年7月20日から11月24日までの間に当地で催された講演会、座談会
をまとめた講演録集
「蘇る高原の縄文王国」 井戸尻文化の世界性 
の中の、富士見町立南中学校体育館にて2002年8月4日に行われた、「富士見高原は面白い」と題された宮崎駿氏の講演録をご覧ください


監督もやはり「稗之底村」に捕り憑かれたお一人のようです

ひょっとすると、「稗之底村」がアニメになる日が来るかもしれませんね



青文字の部分は2012-8-19 加筆

「稗之底村」の廃村の理由を探し、「富士見町史上巻」の中に下記の文章を発見いたしました

また、別の史料によれば、廃村の直接のきっかけは、稗之底の水神社のあたりで「怪異なること」が起こったためであると言い伝えられており、「白きにわ鳥出、屋根に登り、おどしなどいたし候よし」ともあり
当時の人々の間に、薄気味悪い土地と印象を残していたことがわかる
いずれにせよ、廃村当時の直接的な記録が残っているわけではないので、このへんの事情ははっきりとしない

別の史料とやらを見てみたいものです・・・


      以下2015-08-17 加筆

と、史料を探しておりましたら

「富士見町史上巻」資料編にこのところの文章を見つけることができました

   一四五 文政四年二月 稗之底村再興一件につき諏訪城下詰衆宛乙事村役人書状
の中に
「一 稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓ニ而地所至而寒ク、作毛実入兼、其上当村之水神山尾崎明神之森ヨリ(U+309F)怪異成事
共有之、住居難成、・・・・」
さらに
   一四八 文政四年二月 稗之底村再興一件につき町にて書留帳
には
「一 水神森より異へん成儀と申儀ハ、何事二候やと御尋有之、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登りおどしなといたし候よし」
とある
水神森の異変とは、古人の言い伝えによると、白い鶏が出現して屋根から人を脅したらしい
日本においての鶏は古代埴輪にその姿を遺しますが、以来江戸期に入るまで海外種の鶏の流入は無かったようですので
現在見かける白の鶏はかなり怪異なものであったようです
わざわざこのことを報告しているのですから、当時としてはかなり恐ろしいことだったようすが伺えます

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稗 之 底 村 関係の項

仮説は仮説のままなのか・・・
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妖  し  の  森  ・稗の底
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by takibiyarou | 2008-01-18 04:59 | 妖しの森 | Trackback | Comments(0)