木洩れ日の森から

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タグ:蕉門十哲 ( 13 ) タグの人気記事


2009年 11月 06日

そして芭蕉庵桃青

我が家の蕉門十哲をご紹介してまいりましたが
取りはやはり、師匠

松尾 芭蕉(まつお ばしょう)

芭蕉について私が改めて紹介することもないでしょうが
経歴をかいつまむと
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))
芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、
次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。

蕉風
閑寂(かんじゃく)で気品高い芸術としての俳諧を目ざし、「さび・しおり・細み・軽み」を重んじた
「さび」とは、古びておもむきのある美しさ、閑寂・枯淡な境地
「しおり」とは、作者の細やかな感情が余情となって句ににじみでること
「細み」とは、句の心が幽玄で微妙な境地になった状態
「軽み」とは、身近な題材に美を見いだして平淡にさらりと表現すること

詳しくは


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     ま ゆ は き を 俤 に し て 紅 粉 の 花  
   

   
     <まゆはきを おもかげにして べにのはな>
     
     紅花を眺めながらの旅は、心まで華やぐものである
     こうした心地で紅花に目を遣ると、女性が化粧で使用するまゆはきが思い出されるよう だ

     【眉掃き】白粉(おしろい)をつけたあとで眉を払う小さな刷毛






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おくのほそ道 尾花沢の章段

by takibiyarou | 2009-11-06 07:52 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2009年 11月 05日

蕉門十哲 その十


杉山杉風 (さんぷう)

江戸幕府出入りの魚問屋主人。
正保4年(1647年)生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである。
一時5代将軍綱吉による生類憐の令によって鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった。
享保17年(1732年)死去。享年86歳。

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                   (夏) 朝顔やその日その日の花のでき

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そのたの

by takibiyarou | 2009-11-05 07:45 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2008年 10月 03日

蕉門十哲 その九

10月に入りましたが、まだまだ半袖
とはいえ
お山はもうストーブが恋しい季節

そう、秋です

いよいよ幽玄の森の季節です


そんなこんなで、蕉門十哲 その九

立花北枝(たちばな ほくし)

金沢の門人で刀研ぎ商
『奥の細道』の旅で金沢を通過したおりに芭蕉の門に入る
通称は研屋源四郎
兄牧童と共に芭蕉の門に入った

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   し ぐ れ ね ば 又 松 風 の 只 を か ず     



   續猿蓑 巻之下 冬之部

   <しぐれねば またまつかぜの ただおかず>

   時雨が来ると淋しい、来なければいいと思っていたら
   時雨は無かったがかわりに松の風が淋しくないて
   初冬の悲しさは避けられないようだ

   續猿蓑  

代表作

by takibiyarou | 2008-10-03 07:29 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 30日

蕉門十哲 その八

北の地から帰ってきましたが、なんだか疲れてしまいました
飛行機での移動は短時間なのですが、やはりその移動距離は精神に対して影響するようです
雨の羽田を立ち、豪雨の新千歳に着きました
昨日まで夏日だったそうですが、気温は9度、かなり寒い日です
その豪雨の中を一路札幌に向かい走ります
やがて少し雨足も弱まった頃、道路の両側にはびっしりと蕗の薹
それも並みの蕗の薹ではありません
大人の握りこぶし大の見事な奴、そんな蕗の薹がびっしりと
ナゼ北の大地の生物は巨大化するのでしょう、動物については、「恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する」という「ベルクマンの法則」とかを聞いた事が有りますが、植物にも当てはまるのでしょうか
確かに北海道に自生する蕗はデカイです、螺湾蕗(ラワンフキ)に至ってはその太さ約10センチ、2,3メートルにも成長します、まさに恐竜の世界です
こんな巨大な蕗の薹を天婦羅西たら、おそらく一つでお腹いっぱいになるでしょう
と地元の人に話したら、笑っていました
そんなこんなで札幌、これから少しお仕事です


北の国のお話はゆっくりとする事にして、今日は「蕉門十哲 その八」

森川許六 (もりかわ きょりく)

明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。 「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・
俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の
門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、
絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」
の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。
 『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
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    十 団 子 も 子 つ ぶ に な り ぬ 秋 の 風



    續猿蓑 巻之下 旅之部
    <とおだごも こつぶになりぬ あきのかぜ>
    「十團子」は、駿河の宇津山の登り口で売っていた団子
    10個を櫛に刺して売っていたという東海道の名物。
    なぜか小さく見える十団子
    おりしも秋風がひゅーと吹いてきた
    
    世知辛くなった世相を嘆く意味に多く使われる句のようです

    師から「さびあり」と誉められた句でもあるようです


十団子伝説
宇津ノ谷峠の旧東海道の峠に地蔵堂があって人々は十団子を供え道中安全を祈ったそうです
慶龍寺の由来によると
宇津ノ谷の梅林院の住職が難病にかかり、膿血を小僧に吸わせ苦痛をやわらげていたが小僧は人肉の味を覚え
やがて人を食らう鬼になってしまい、峠を通る旅人に危害を加えるようになった
旅の僧に姿を変えた地蔵尊は峠で鬼に「汝に神通力あらば我が掌に乗れるか」というと鬼は掌の上で小さな丸い固まりになりました
すかさず僧は杖でこれを打つと小さな10個の粒になったのでこれを一口で飲み込んでしまいました
以来、峠の道は安全になったという

代表作

by takibiyarou | 2008-04-30 06:32 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 14日

蕉門十哲 その七

週末は私にしては珍しくお仕事をお山に持ち込みました
そんなこんなで今日は、久々の蕉門十哲のご紹介

志太野坡 (しだ やば)

寛文2年(1662.1.3)~元文5年(1740.1.3))
越前出身。利牛と同じく両替商三井越後屋の番頭であったが、後志して職業的俳諧師として生涯をおくる
「軽み」の俳風では蕉門随一の人、『炭俵』編集人である
「おくのほそ道」芭蕉自筆本は、野坡の許に伝えられたので「野坡本」と称されている


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        ま だ 冷 め ぬ 瓦 落 け り 寺 の 軒

       
        
        厳しい日差しに焼かれた荒れ寺

        そんな夏の日暮れ

        蝉の声さえ聞こえそうです

野坡の代表作

by takibiyarou | 2008-04-14 06:42 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2007年 11月 15日

蕉門十哲 その六

今回のお仕事も今日で何とかなりそうです
これからすこし仮眠して「点灯式」のリハーサル
そして今晩がその本番です
うまくすると、明日はお休みかな
ノエルの森が楽しみです

そんなこんなで、今回は蕉門十哲

向井去来(むかいきょらい)

(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)

肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。
父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。
去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている。
篤実とか温厚とか、去来にまつわる評価は高いが、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名されたように京都のみならず,西日本の蕉門を束ねた実績は単に温厚篤実だけではない卓抜たる人心収攬の技量も併せ持ったと考えるべきであろう。後世に知的な人という印象を残す。
嵯峨野に落柿舎を持ち、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆。『去来抄』は芭蕉研究の最高の書。
墓は京都嵯峨の落柿舎裏にひっそりと残っている。その規模の小さなことは、高浜虚子の歌「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」がよく表している。

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    応 々 と い へ ど た た く や 雪 の 門

  


    雪がしんしんと降り、訪れた客が門の戸を叩いている。
    “おうおう”と返事をするのだが客には聞こえないらしい。
    早く開けてとたたいている。
    
    この雪の門は去来の隠居所でもあり俳諧の道場でもあった嵯峨野「落柿舎」でしょうか

    雪の降りしきる落柿舎の門を叩く様が想像されますね
    
   
    

去来の代表作

by takibiyarou | 2007-11-15 06:49 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2007年 11月 01日

蕉門十哲 その五

昨日、お友達と森に行っている家内からメールが入りました
友人と「稗の底」妖しの森を散歩していると、その日は「オリビア・ニュートンジョン」が聞こえてきたそうです
「妖しの森」の選曲はかなり多彩のようです

久しぶりの蕉門十哲
この度は

内藤丈草(ないとう じょうそう)

寛文2年(1662)~元禄17年(1704.2.24))
尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母と死別し、継母に育てられる。武士を捨てて
出家し琵琶湖のほとりに小さな庵を構えた
元禄2年に入門と思われる
芭蕉死後10年間ひたすら追善に生涯を捧げた。享年43歳。
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  ほ と と ぎ す 鳴 く や 湖 水 の さ ゝ 濁 り



 續猿蓑 巻之下 夏之部

<ほととぎす なくやこすいの ささにごり>

    「さゝ濁り」は湖水が雨や川のために濁ること

    梅雨時の琵琶湖の水が濁っている
    あれはホトトギスが激しく鳴いて湖面を渡ったために
    水が乱れて濁ったに違いない

    時鳥が比良山系から琵琶湖の湖面を横切ってとぶ様

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by takibiyarou | 2007-11-01 06:19 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 24日

蕉門十哲 その四

先週もお仕事で森には行けませんでした
二週間も森を離れますとたまりません
家内と指を折りながら週末からのGWを楽しみにしています

今日は
越智越人(おち えつじん)(明暦2年(1656)~没年不詳)

本名越智十蔵。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して
一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。
芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり
粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある
伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行し、かつ馬上で酔っ払ったことがある
同行の越人は酒に酔っ払って居眠りしながら馬に揺られている。越人の酒の酔いが冷めてくれればよいのだが
かなりの酒好きだったようです     

    雪や砂馬より落ちよ酒の酔  芭蕉

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我が家の句は

     君 が 代 や 筑 摩 祭 も 鍋 一 ツ

    <きみがよやつくままつりもなべひとつ>  越人    


    「筑摩祭」は、近江坂田郡筑摩明神の祭礼で、女はそれまでに通わせた男の数だけ土鍋    
    をかぶって、奉納することになっていたそうです
     

越人の代表作

by takibiyarou | 2007-04-24 07:22 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 18日

極 め 付 き

TVの「○○○鑑定団」という番組の影響でしょうか
古美術、書画骨董というとすぐに「鑑定団」に出せばいいのに、とよく言われます
確かに真贋は気になるところですね
しかし私は真贋の鑑定よりも、「におい」とか「品」の方が気に掛かります
そんな第一印象を大事にしたいです
そして、付けられた金額よりも楽しめるかどうかの方が気に掛かります
使い、眺めていればそのうち「紛い物」のメッキは剥がれるものです
骨董は「楽しんで何ぼ」と私は思っています
そのものの価値を認識することは大切ですが
楽しめてさえ居れば、値段はほとんど気にならないものです

「極め付き」という言葉が有ります
この「極」とは書画や古道具に付ける「極書」とよばれる鑑定書のことです
桐箱の裏側に書かれていたり、極め札を付ける場合も有ります
同様に二つ折りの鑑定書がありこれを「オリカミ」と呼んでいたようです
そのため「折り紙付き」の言葉もうまれたということです
昔、折り紙は鶴では無くて鑑定書のことだったようです
現在の絵画の場合、作家別に認定された鑑定人により「鑑定シール 」が発行されるシステムが一般的のようです
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同じような言葉で「お墨付き」という言葉が有りますが
これは将軍や大名から臣下に与えられた領地の保障確認の文書で「花押」が墨で記されていたということです、書画骨董の鑑定書ではありません

例の、我が「蕉門十哲」の軸の中にも幾つかの「極め付き」が含まれています

芭蕉の

「ま ゆ は き を 俤 に し て 紅 粉 の 花」

の句も「極め付き」のようです

しかし、この「極」自体も疑えばきりが有りません
よほどの知識と経験がない限り「極」の真贋の判断は難しいでしょう

鑑定書を頼るのではなく
自分の感性で楽しむのが一番ではないでしょうか





極札
 
短冊状の紙に書かれた鑑定書

by takibiyarou | 2007-04-18 09:00 | 雑観 | Trackback | Comments(0)
2007年 04月 09日

蕉門十哲 その三

07/4/6
12時01分深夜割引にて小淵沢インターに到着
ノエルの森は満月に近い月夜です
荷物を山荘に搬入していると、近所のゴウ介家が声を掛けてくれました
お酒をご用意して我が家の到着を待っていてくれたようです
月夜の宴です
これからちょっとお寄りしてきましょう

そういえば、月にまつわる句がありました、各務支考、蕉門十哲の一人です

蕉門十哲 その三
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各務支考(かがみ しこう)

寛文5年~享保16年(1731.2.7))

美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず
下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田に蕉門俳諧を広めるなど
政治的手腕もかなりあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった
 
芭蕉晩年の"かるみ"の俳風や平明な日常的世界を重視した支考は、
芭蕉没後、都会派の江戸座に対し、美濃派を立机し 野盤子 東華坊 西華坊 獅子老人 桃花仙人 黄色山老人など多くの号を使用していた

「その手はくわなの焼蛤」
 有名な語呂合わせですが
 桑名の蛤

『東海道名所図絵』にも登場する桑名宿の煮蛤を
「時雨蛤」と命名したのも各務支考のようです



      海 の あ る 都 や 月 の あ た ご 山



      京都市街の北西にそびえる愛宕山は
      東方に立つ比叡山と並ぶ古都の背山です
 


 

支考の代表作

by takibiyarou | 2007-04-09 07:09 | 雑観 | Trackback | Comments(0)