木洩れ日の森から

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2005年 04月 01日

山の音 序文と解説

鷹 羽 狩 行
1930年、山形県生まれ。
15歳で俳句を始め、山口誓子・秋元不死男に師事。
1978年、俳誌「狩」創刊、主宰。
毎日新聞・NHK全国俳句大会などの俳句選者。
社団法人俳人協会会長、
国際俳句交流協会顧問、
社団法人日本文藝家協会理事。
1965年、句集『誕生』で俳人協会賞、
1975年、句集『平遠』で芸術選奨文部大臣新人賞、
2002年、海外吟『翼灯集』と句集『十三星』で毎日芸術賞を受賞。
句集・評論集・入門書・歳時記など著書多数。

代表句

落椿われならば急流へ落つ
摩天楼より新緑がパセリほど
胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋
みちのくの星入り氷柱われに呉れよ
一対か一対一か枯野人


山の音 序文

俳句の基礎は写生であるが、
基礎の土台が即ち建物のすべてではないのだから、
俳句は写生プラス・アルファーだと
私は思っている。

このことを藤原滋章氏の句業に見てゆこう。

泣 き や み し 涙 の あ と の 天 瓜 粉

赤ん坊の顔に残る天瓜粉のなみだ型を発見。顔にマダラについた白い粉という滑稽さが、”泣いた烏がもう笑う”気分転換の速い子供の可愛さを浮き彫りにする。

春 一 番 山 を 過 ぎ ゆ く 山 の 音

「山を過ぎゆく」「春一番」の風音を「山の音」と聞いた。
その春嵐が山から生まれ、山々を通過して、ますます力を得てゆき、はては山を離れた所にまで行きつく。
眼前の山景も大きいが、それより更に広汎な人界にも到って猛威を及ぼす風の力を、春一番の声とした。
それは全山を上げて甦る新生命の息吹の響きでも在ろう。ところで写生プラス・アルファーの一つには、適切な用語の選択と斡旋がある。

たとえば

棒立ちに渦にのまれて盆のもの

の「棒立ち」が、それである。この語はふつう人間や動物の驚愕のさまの形容語だが、それを無機物の盆供に見た。
また「ひと昔まへの話を菊膾」の「菊」と”聞く”との掛けことば的な斡旋もある。

流灯の縁もゆかりもなく絡み

の”縁もゆかりもない”という成句の引用も、みごと。

箱庭に一夜の雨の水禍のあと

箱庭の中に水害がおこるなどということは、これも写生の立場では、まったくありえない。

送り火を送り火ほどの水で消す

中七の「送り火ほどの」は、小規模の送り盆の行事を、より強く印象づける。その上に、ほんの少しの水で消えてしまう程の火のはかなさが、そのまま死者を迎え送る盆行事の悲哀と空しさに照応している。

水の深さは知らず跳ね水すまし

ダムの水深を知らずにノンキに跳ね廻っている水馬。
それが ”板子一枚下は地獄”と言わでれるような奈落がパックリ口を開けていることを悟らずに、ルンルン気分で踊りまくっている、そのような若者の無反省な生き方も連想させる。
人生には避けがたい危機の存在を少しも知らない、おめでたさ・・・

それぞれの水輪の中に残る鴨

冬の間は水輪も描けないほどの雑踏の中にいた鴨だったが、今は淋しくまばらに残る春の鴨。水輪は存分に広がる。がある限り、鴨は同じ圏内にとどまり(あわてるほど水輪はさらに大きくなり)その圏外には決して出られない。
その光景は、そのまま人間ののっぴきならぬ孤独地獄につながるのではないだろうか。

涅槃図の灯して暗き鳥けもの

涅槃図は入滅悟道の釈迦を記念する絵画だが、その光明界に比べて現世は無明界といわれる。
「灯して暗き鳥けもの」は、光明の教えにもかかわらず、なお悩むわらわれ衆生の嘆きを具象化したものではないか。

逃げ水のごときもの追ひ晩年へ

季題「逃げ水」の斡旋が絶妙。とらえようとして遂に捉え得ぬものを追求してきた半生は、(たとえば俳句のような)絶対美の追究を含めて、より高いものを追わざるを得ない
昨日より今日、今日より明日と希望によって生きるほかはない。
人間の真理そのものを衝くようだ。
このような人生の真理を詠う句は、諺にも通じるものがある。

封を切るまでが福なり福袋

縁起物に対する批判もあるが、それに終わらず、今もなお福が売られ買われるという人情の弱さ、悲しさまでを思わせる。封を切ってしまえばおしまいだから・・・などと頭で判断して、福袋を否定するだけの句ではないのである。
”知らないうちが花”・・・と知識で人生のはかなさを割り切ってしまうのではなく、そのはかなさの中であくまで生きぬくことこそが学問・芸術の道ではあるまいか(前出の「逃げ水・・・」も同じ内容だろう)

追ふも逃ぐるも影のみの走馬灯

"人生は走馬灯のごとし”が句の土台にあろう。
廻り灯籠の逃げるもの追うものの姿を通じて、追求と逃避の限りなく続く人生の無駄を見抜いた。
「封を切るまでが福」ということを知っていながらも、それでも「逃げ水のごときもの」を追う。「涅槃図の灯して暗き鳥けもの」の無明の哀れもそこにある。

地に降りしもを地が消し春の雪

春の淡雪のはかなさをいう。この句は最高の芸術品がそうであるように、無限の意味をもつようだ。つまり大地に消える雪は、無限のものの象徴になっているのである。
春の大地の暖かさが雪を消すというのは、偉大な自然の抱擁力を指すものと考えられる。しかし反面、せっかく地上を求めてきた雪を、雪でなくしてしまう大自然の非情さも感じられないことはない。さらに、消されるものと知りながらも、次から次へと降ってくる雪に、人生のみならず、宇宙の無駄  
「追ふも逃ぐるも影のみの走馬灯」と同様のはかない無駄の繰り返し  までも思われてくる。
だが、以上の多様な内容の一切を含めて大地に落ちる春雪の感慨こそ、この句の豊かな含蓄ではあるまいか。
秀句の究極の内容は、最小ゆえに却って言葉では語り尽くせないほどの無限大の含蓄をはらむ。小さいだけに鋭く突きさして、あらゆるものを貫徹するというところがあるからだろう。

山眠りながらも返すこだまかな

一大巨人の冬の山が、こだまを返しても目覚めてはいない。「こだま」という ”動”によって、あべこべに眠る山の ”静”をより深く印象づける。この「こだま」は
「春 一 番 山 を 過 ぎ ゆ く 山 の 音」と同じ大自然の山の声である。
本集は「山の音」と名づけられたが、これは音なき所に音を聞き、無形に形を見る俳句の深さを体得した著者の句業に、実にふさわしい題名であると思う。




                     昭和60年4月

                     鷹 羽 狩 行







■ 山の音

■ 序文と解説

■ 春

■ 夏

■ 秋

■ 冬

■ 五 七 五

by takibiyarou | 2005-04-01 09:35 | 五 七 五 | Trackback | Comments(0)
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