木洩れ日の森から

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2007年 03月 15日

蕉門十哲 その二

正確にいうと松尾芭蕉は俳人ではなく俳諧師
俳句と俳諧をどうしても混同してしまいますが、実は違うようです
俳諧とは
 平安時代から室町時代に流行した2人以上の人が,短歌の上の句と下の句とを交互によみつづける連歌から発達した俳諧連句
(「俳諧」は「こっけい・おどけ」の意味のこと)が,独立して俳諧とよばれるようになった
俳句とは
 俳諧連句の初句(発句)が独立し,明治時代になって,正岡子規の俳諧革新運動以来,俳句とよばれるようになった
だそうです・・・
書いている本人もよく解かりません、実にややっこしいですね
まあいいでしょう
要するに俳諧と俳句は違い、芭蕉をはじめ蕉門十哲は俳諧師だということのようです

さて、我が「蕉門十哲」の二番手は

服部嵐雪(はっとり らんせつ)

承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))
生年月日不詳、下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる
新左衛門、下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身
若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようです
蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人
芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に
「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」と称えたほどでだったようです
しかし、以前から師弟間には軋みがあったようで芭蕉の奥州行脚にも送別吟を贈っていないそうです
元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞き、一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、
桃隣と一緒に義仲寺に向かい詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」
行き違いも有ったようですが、強い信頼関係もまたあったのですね

   嵐雪といえばこの時期になると必ず口の端に上る

   梅一輪一輪ほどのあたたかさ  でしょう

   布団着て寝たる姿や東山  も代表句ですね

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我が軸の句は

  牡 丹 花 や 角 に よ り ば の 星 の 橋

   (ぼーたんや かどによりばの ほしのはし)


       でしょうか・・・

       
       今年こそ

       七夕の森の夜空に
       
       星の橋は掛かるでしょうか









名月や煙はひ行く水の上 (『萩の露』)

庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ (『あら野』)

かくれ家やよめ菜の中に残る菊 (『あら野』)

我もらじ新酒は人の醒やすき (『あら野』)

濡縁や薺こぼるる土ながら (『続虚栗』)

木枯らしの吹き行くうしろすがた哉 (『続虚栗』)

我や来ぬひと夜よし原天の川 (『虚栗』)

雪は申さず先ず紫の筑波かな (『猿蓑』)

狗背の塵に選らるる蕨かな (『猿蓑』)

出替りや稚ごころに物哀れ (『猿蓑』)

下闇や地虫ながらの蝉の聲 (『猿蓑』)

花すゝき大名衆をまつり哉 (『猿蓑』)

裾折て菜をつみしらん草枕 (『猿蓑』)

出替や幼ごゝろに物あはれ (『猿蓑』)

狗脊の塵にゑらるゝわらびかな (『猿蓑』)

兼好も莚織けり花ざかり (『炭俵』)

うぐひすにほうと息する朝哉 (『炭俵』)

鋸にからきめみせて花つばき (『炭俵』)

花はよも毛虫にならじ家櫻 (『炭俵』)

塩うをの裏ほす日也衣がへ (『炭俵』)

行燈を月の夜にせんほとゝぎす (『炭俵』)

文もなく口上もなし粽五把 (『炭俵』)

早乙女にかへてとりたる菜飯哉 (『炭俵』)

竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき (『炭俵』)

七夕やふりかへりたるあまの川 (『炭俵』)

相撲取ならぶや秋のからにしき (『炭俵』)

山臥の見事に出立師走哉 (『炭俵』)

濡縁や薺こぼるゝ土ながら (『續猿蓑』)

楪の世阿彌まつりや靑かづら (『續猿蓑』)

喰物もみな水くさし魂まつり (『續猿蓑』)

魂まつりここがねがひのみやこなり (『杜撰集』)

一葉散る咄ひとはちる風の上 (辞世句)

by takibiyarou | 2007-03-15 06:05 | 雑観・雑考 | Trackback | Comments(0)
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