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木洩れ日の森から

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2007年 12月 20日

信 濃 の 国

信濃の国は十州に 境連ぬる国にして

そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し

松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地

海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき

ノエルの森は長野県
この長野県の「県歌」をご存知でしょうか
日本全国、たいていの県には「県歌」なるものがあるようです、ほとんど知られていませんが
しかし、その中でほとんどの県民が知っている、また歌える
そんなまれに見る県歌、それが「信濃の国」なのです
1998年長野冬季オリンピックの開会式で沸き起こった大合唱、それが「信濃の国」です
信 濃 の 国_d0082305_2083547.jpg

明治32年に「浅井 洌」作詞 「依田弁之助」作曲の小学校唱歌として発表されました
しかしこの曲はあまり歌われることは有りませんでした
次に「北村季晴」の作曲した新しい「信濃の国」が師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯用として大ヒットしたのです
しかしこのときは所詮単なる小学校唱歌「県歌」ではありません
この歌が「県歌」へと上りつめるには壮大なるドラマがあるのです
信 濃 の 国_d0082305_2085499.jpg

元々この地方には東信・北信の6郡を管轄し 長野に県庁を置く「長野県」
そして中信・安曇・筑摩(木曽を含む)2郡、および南信・諏訪・伊那2郡に、飛騨国の全域3郡をあわせた松本に県庁を置く「筑摩県」とが有りました
しかし明治9年、この「筑摩県」が廃止され飛騨国の部分は岐阜県へ、信濃国の部分が長野県に編入されてしまうのです
そしてその県庁は「新長野県」の中央に位置する「松本」ではなく、かなり北の方の「長野」に置かれたのです
「松本」側は面白いはずは有りません、そしてまたこの地方は同じ県とはいえ自然環境も文化的伝統も県内各地で大変な違いが有るのです
なので長野に県庁を奪われた松本は憤懣やるかたないことでした
松本で何度と無く長野県からの「独立運動」、県庁の「松本移庁請願運動」沸き起こるのも仕方ありません
「信州南北戦争」とまで呼ばれていたようです

そんな中

1948年春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が可決されそうになりました

このとき、分割に反対する北信地方民と東信地方民が占拠する議場の傍聴席から

突如として「信濃の国」の大合唱が沸き起たのです

そしてその大合唱は議会全体をもを巻き込み、激しい対立に終止符をうち政治的な和解に至ったそうな


そんな感動的なエピソードとともに「信濃の国」

1968年5月20日に正式な長野県歌に制定されました


そして現在もなお

歌い継がれているのです







信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれもの沢に 万足らわぬ事ぞなき



四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり



木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け
細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる



旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず



吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い

by takibiyarou | 2007-12-20 06:04 | 八ヶ岳


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